虚空碧海 - オリジナル恋愛小説

オリジナル恋愛小説を掲載しています。

小説一覧

更新情報------------------------------------------------------
伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい」番外編(2022-06-16)
伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい」番外編(2022-03-23)
伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい」番外編(2022-01-27)
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遠くの光に踵を上げて(全94話・完結)
今まで負け知らずだったジークは、アカデミーの入学試験で初めて敗北する。その相手は、まだ10歳である名門ラグランジェ家の一人娘・アンジェリカだった。クラスメイトとなった二人は互いに反発するが、やがてジークはラグランジェ家や彼女の出生の秘密に関わるようになり――。

ピンクローズ - Pink Rose -(全31話・完結)
王宮医師のラウルは、ある日、父親に手を引かれて歩く小さな少女を見て驚く。彼女のあどけない笑顔には、かつて助けられなかった大切な少女の面影があった。

東京ラビリンス(全64話・完結)
双子の兄妹である遥と澪は、17歳の誕生日、ある突拍子もないことを祖父に命じられる。それは、かつて世間を騒がせた絵画泥棒・怪盗ファントムの後継者となることだった。

明日に咲く花(全21話・完結)
ユールベルは魔導科学技術研究所で実習生として働き始めたが、先輩のジョシュの態度はあからさまに刺々しく冷たい。その理由がわからず悩んでいたところへ、同じフロアのレイモンドが馴れ馴れしく声をかけてきて――。
「遠くの光に踵を上げて」番外編となります。

三度目の家庭教師(全3話・完結)
「レイチェルに魔導を教えてやってくれないか」 ――今でも彼女を想い続けていることは知っているはずなのに。それどころか実際に裏切ったことさえあるのに。ラウルにはサイファの真意がわからなかった。
「遠くの光に踵を上げて」番外編となります。

ボーダーライン(全4話・完結)
最初に好きになったのは隣の席の美少女だった。しかし、彼女と瓜二つの双子の兄に報復でキスされて以降、彼のことばかりが気になるようになり——。
「東京ラビリンス」番外編となります。

Andante - アンダンテ -(全8話・完結)
彼女から寄せられる好意を煩わしいとしか思わなかった。彼女の想いに応えるつもりはなかった。なのに、いつしか少しずつ距離が縮まっていて——。
「東京ラビリンス」番外編となります。

いつか恋になる(全6話・完結)
好きです、私とつきあってください——捜査一課の刑事である南野誠一は、事件で関わった少女にいきなりそう告白された。滅多にお目にかかれないほどの美少女で、素直でかわいらしい性格だと好感も持っているが、つきあうわけにはいかない。なぜなら彼女はひとまわりも年下の中学生で、そのうえ大財閥の御令嬢なのだから——。
「東京ラビリンス」番外編となります。

青い炎(全23話・完結)
今日、僕は同時にふたつの失恋をした——。もともと叶うことのない想いだった。にもかかわらず、胸の内で静かな激情の炎を燃やし続けてきた。これからもこの想いを燻らせていくのだろう。仲睦まじい二人を誰よりも近くで見守りながら。
「東京ラビリンス」番外編となります。

誰がために鼓動は高鳴る(全9話・完結)
陽菜は生まれつき心臓に欠陥を抱えていたため、学校にも行けず、友達もできず、家族にさえ持て余される有り様で、いつしか生きることをあきらめるようになっていた。しかし——。

機械仕掛けのカンパネラ(全25話・完結)
お父さんを殺した男を殺すんだ、七海のこの手で——。淡い月明かりに照らされた静謐な夜、父親が惨殺された。幼い七海は復讐を誓う。父親の親友で七海の親代わりとなった拓海とともに。

ひとつ屋根の下(本編全33話・完結)
橘財閥の御曹司である遥は、両親のせいで孤児となった少女を引き取った。純粋に責任を感じてのことだったが、いつしか彼女に惹かれていき——。
「機械仕掛けのカンパネラ」番外編となります。

自殺志願少女と誘拐犯(本編全12話・完結)
オレに誘拐されてみないか——ある夏の日、千尋は暴走車に飛び込もうとした少女を助けると、そう言って彼女のまえに手を差し出した。

オレの愛しい王子様(本編全23話・完結)
ずっと翼のそばにいて、翼を支える——幼いころ創真はひとりの少女とそう約束を交わした。少女はいつしか麗しい男装で王子様と呼ばれるようになるが、それでも創真の気持ちはあのころのまま変わらない。

伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい(本編全6話・完結)
伯爵令嬢のシャーロットはもうすぐ顔も知らないおじさまと結婚する。だから最後にひとつだけわがままを叶えようと屋敷をこっそり抜け出した。そこで知り合ったのは王都の騎士団に所属するという青年で——。


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伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい

伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい
きっと、恋を知らないままでよかった。

伯爵令嬢のシャーロットはもうすぐ顔も知らないおじさまと結婚する。
だから最後にひとつだけわがままを叶えようと屋敷をこっそり抜け出した。
そこで知り合ったのは王都の騎士団に所属するという青年で——。


第1話 伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい
第2話 公爵家の騎士団長は一目惚れの少女と結婚したい
第3話 侯爵家の強がり夫人は元婚約者を忘れられない
第4話 侯爵家の気弱な従僕は先輩侍女に逆らえない
第5話 伯爵家の堅物当主は元同級生から離れられない
エピローグ 〜 公爵家の幼妻は旦那様と仲良くしたい

番外編 騎士志望の少年はいとこの少女を幸せにしたい
番外編 伯爵家の次期当主はすこしだけ恩人の恋心に報いたい
番外編 公爵家の次期当主は愛する新妻とデートしたい
番外編 公爵家の騎士団長は新妻のいとこを牽制したい
番外編 妃殿下は公爵家の新妻をかわいがりたい
番外編 公爵家の次期当主は最愛の妻をエスコートしたい


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番外編 公爵家の次期当主は最愛の妻をエスコートしたい

 リチャードは支度部屋の扉を開けるなり息を飲んだ。
 そこに盛装したシャーロットがいることはわかっていたはずなのに、それでも圧倒されてしまった。言葉をかけるどころか息をすることさえ忘れたまま、ただただじっと見入ってしまう。
 まるで天から降臨したかのようだ。
 淡いアイスグレーに星々のようなきらめきが鏤められた、ふんわりと豪奢なドレス。その胸元は大きく開き、いとけない彼女もいつもよりすこし艶やかに見える。そしていつもどおりにみずみずしい。
「あの、どこかおかしいですか?」
 不安のにじむ声に、リチャードはようやく我にかえった。
「すまない、想像以上にきれいで思わず見とれてしまった。君の魅力が何も損なわれることなく引き出されている。さすが俺の見立てだ」
「まあ」
 シャーロットが安堵したようにくすくすと笑うと、やわらかそうな胸元も揺れる。それを目にして憂うべき忌々しい現実を思い出した。
「しかし他の男のまえでこんなに肌をさらすのはなぁ」
「みなさんこのくらい見慣れているのではないですか?」
「まあ、それはそうだが……」
 これから二人は宮廷舞踏会に出席する予定だ。
 こういった夜会において、女性は肩や胸元を露出したドレスを着用することになっている。それゆえ何度も出席している男性なら確かに見慣れているだろうが、だからといって邪な気持ちを抱かないとはかぎらない。なにせ彼女はとびきり愛らしくて美しくて輝いているのだから。
「やっぱり行くのはやめよう」
「ええっ?」
 驚くシャーロットを見て、うっすらと笑みを浮かべながらその手をとると、なめらかなシルクのグローブ越しに軽く口づける。
「体調が優れないとか何か理由をつければ許されるさ」
「でも、せっかく支度したんですから……」
「このままうちで二人だけの舞踏会をすればいい」
 もともと王妃に厳命されたから招待を受けただけで、気は乗らなかったのだ。いずれ何かしらの夜会に出なければならないにしても、わざわざ注目度が段違いの宮廷舞踏会に出ることはない。そう思ったが——。
「わたし宮廷舞踏会を楽しみにしていたんです。きらびやかな王宮でリチャードと踊りたいですし、皆さんに見てもらいたいです。わたしたちが仲睦まじいこともわかってもらえるでしょうし……行きません?」
 ペリドットの瞳でじいっと見つめながらそう請われると、頷くしかなかった。我ながらチョロすぎるとは思っているがどうしようもない。
 執事が笑いを噛み殺していることには気付かないふりをした。

 宮廷舞踏会——。
 それは国王が主催する最も格式の高い夜会だ。年に一度、国内の有力貴族を招待して王宮で開催されている。招待を受ければ有力貴族と認められることになるため、名誉と考えるひとが多い。
 だがリチャードにとっては面倒でしかなかった。成人してからは毎年招待されているものの、学校だの仕事だのと理由をつけては欠席している。さすがにすべてというわけにはいかなかったけれど。
 一方、十六歳のシャーロットは実質これが社交デビューとなる。本来ならデビュタントとして純白のドレスで臨むところだが、既婚者ゆえ許されない。せめて雰囲気だけでもということで白系統の色にしたのだ。
 もっとも彼女自身にはあまりこだわりがないようだった。それでもリチャードがそうしたかったし、何より国王夫妻の意向でもある。口添えの結果としてこうなったので責任を感じているのだろう。

「さあ、行こうか」
 馬車を降りると、シャーロットをエスコートしながら王宮へつづく階段を上がる。
 いまのところ彼女に緊張した様子は見られない。淑女を装いつつも、夜会らしい雰囲気を感じてひそかにワクワクしているようだ。リチャードの視線に気付くとニコッとかわいらしい笑みを返した。

 ザワッ——。
 二人が足を踏み入れると、きらびやかな大広間にざわめきが広がっていく。
 同時にあちらこちらから好奇の目が向けられた。けれどそれは想定内のこと。二人とも気にするような素振りはいっさい見せず、ときどき視線を交わして微笑み合いながら優雅に足を進める。
「まずは国王陛下と妃殿下に謁見だ」
「はい」
 案内役の侍従に促されて奥の一段高いところに上がり、豪奢な椅子に並んで腰掛けている国王夫妻の前に出ると、二人で最敬礼を行う。国王は威厳のある居住まいでひとつ鷹揚に頷いたあと、ふっと目元をやわらげた。
「さすがに今回は逃げなかったな」
「当然です」
 つい先刻、行くのをやめようとしていたばかりなのに、素知らぬ顔でそう答えた。隣ではシャーロットがこっそりと笑っている。
「ウィンザー侯爵夫人もよく来た」
「この日を楽しみにしておりました」
「ドレスもよく似合っておる」
「ありがとうございます」
 彼女が国王に謁見するのはこれが初めてである。しかしながら萎縮した様子はなく、凜とした声でいつもどおり気負いなく答えていた。国王は満足げに頷く。
「グレイ伯爵夫妻もすでに来ておる」
 アーサーが——?
 爵位を継いでから何度か招待されているらしいので、別におかしくはないのだが、彼からは何も聞いていなかったのですこし驚いた。シャーロットもおそらくは知らなかったはずだ。
「ゆっくり話をしていくといい」
「お気遣いに感謝します」
 彼女はうれしさを抑えきれないような表情になり、わずかに声をはずませた。国王はやわらかく目を細めると、今度は隣のリチャードに視線を移してにやりと笑う。
「おまえもゆっくりするのだぞ」
「承知しています」
 謁見のあと一曲だけ踊って帰るつもりでいたのだが、見透かされていたようだ。何となくはめられたような心持ちになりつつも、シャーロットが喜んでいるので水をさすわけにはいかない。
「シャーロット」
 つづいて王妃エリザベスが口を開いた。本来であればウィンザー侯爵夫人と呼ぶべきところだが、あえて親しみをこめて名前で呼んだのだろう。
「またお茶会をしよう」
「はい、ぜひ」
 シャーロットはふわりと可憐な笑みを浮かべる。
 お茶会で面識があるのは知っているが——その愛らしい表情を向けられているのが自分ではなく、自分の天敵ともいえるエリザベスだということが、リチャードとしてはすこし面白くなかった。

 つつがなく謁見を終え、二人は再びきらびやかな大広間に降り立った。
 四方八方から探るような好奇の目を向けられても、シャーロットは意に介さず、あたりに視線をめぐらせて両親の姿を探していく。リチャードもぐるりと見まわしてみたが見当たらない。
「ウィンザー卿」
 そんなとき、急に背後からなれなれしく声をかけられた。
 振り向いた先には自身より幾分か年上のダービー伯爵がいた。何度か話しかけられたくらいで親しいわけではないし、そうなりたくもない人物だ。だからといってまるきり無視するわけにはいかない。
「何でしょう」
 冷ややかに返したが、彼はワインの入ったグラスを手にしたまま、臆することなく無遠慮に距離を詰めてくる。
「そちらが噂の奥方ですな」
「どんな噂かは存じませんが」
「ずいぶんとお若いそうで」
「成人はしていますよ」
「うらやましいかぎりです」
 そう言いながら、ひどくねっとりとした視線をシャーロットに向ける。
 リチャードは不快に思いながらも表情には出さず、さりげなく彼女を後ろに庇おうとしたが——そのときタイミングよく楽団による演奏が始まった。
「失礼、我々は踊ってきますので」
 一方的に告げると、シャーロットの手をひいて大広間の中央へと向かう。
 彼女も見るからにほっとした顔をしていた。容赦のない視線を向けられることくらい覚悟していたと思うが、さすがにあの目で眺めまわされるのは気持ちが悪かっただろう。
「すまなかった」
「平気です」
 気丈にも彼女はにっこりとして答えた。
 リチャードも気を取りなおして微笑を浮かべると、すっと手をとり、視線を交わし、リズムに合わせて踊り始める。一瞬で曲に乗り、軽やかに流れるように華麗なステップを踏んでいく。
 不思議なことに、彼女とは合わせようとするまでもなく自然と合う。最初に踊ってみたそのときから。もちろん互いに素養があることが前提ではあるが、きっと運命的に波長が合うのだろう。
 音楽が終わり、二人はそっと動きを止めた。
 ただただ楽しくて心地のいい夢のような時間だった。ここが王宮であることさえ忘れるくらいに。彼女も同じ気持ちに違いない。視線を交わすと、示し合わせたかのように二人して屈託なく笑う。
 まわりからは拍手が起こった。もちろん自分たちだけに向けられたものではないが、明確にこちらに向けて拍手しているひとも少なくない。二人は会釈で応えつつ下がろうとしたが——。

「シャーロット」
 ざわめきの中で、女性の声がはっきりとそう呼ぶのを耳にした。
 振り向くと、シャーロットの両親であるグレイ伯爵夫妻がそこにいた。娘が踊っているのを見つけて会いに来たのだろう。
「お母さま、お父さま!」
 シャーロットは破顔し、すぐに二人のほうへ軽やかに駆けていく。
「お会いできてうれしいです」
「わたしもよ」
 母娘が声をはずませるのを、父であるグレイ伯爵は一歩下がったところで見守っていたが、リチャードの視線に気付くと少々きまりが悪そうに会釈する。リチャードも無言のまま口元だけを上げて応じた。
「あら」
 そのとき再び演奏が始まった。
 夫人は邪魔にならないようダンスフロアから下がろうとしたが、逆にグレイ伯爵はすっと前に進み出た。そしてどこかあらたまった様子でリチャードを見つめて口を開く。
「ウィンザー侯爵、ご夫人と踊っても構いませんか?」
「え、ああ、シャーロットさえよければ……どうする?」
「ふふっ、喜んで」
 ほかの男と踊らせる気などさらさらなかったが、実の父親となれば別だ。
 グレイ伯爵は紳士的に一礼してからシャーロットの手をとり、ダンスフロアの空いているところへ向かう。それを見送ると、リチャードはふっと息をついて残された夫人に振り返った。
「わたしと踊っていただけますか?」
「ええ、喜んで」
 そう答えた彼女の笑顔は、ドキリとするくらいシャーロットと雰囲気が似ていた。

「わたし、実はあなたのことをあまり信用していなかったの」
 ゆったりとしたワルツの調べにのせてグレイ伯爵夫人と踊っていると、彼女はどこか遠くに思いをめぐらせるような顔をしながら、そんなことを言った。
「それは、そうでしょうね」
 地位と立場を利用して強引に娘を娶った男など、信用するほうが難しいだろう。恨み言くらいなら甘んじて受けようと覚悟したが、どういうわけか彼女はおかしそうにふふっと笑う。
「でも今日こっそりとあの子を見ていたら、すごく幸せそうで……そちらでとても大切にされているんだとわかったわ。だからいまはあなたでよかったと思っています」
「そう言っていただけて安堵しました」
「わたしたちではあんなに生き生きとさせてあげられなかった。あの子のことを思って狭い世界に閉じ込めてしまったけれど、間違っていたのかもしれないわね」
 その声には自嘲めいた色がにじんでいた。
 確かに、シャーロットが外の世界にあこがれていたのは間違いない。笑顔を見せつつも内心つらい思いをしていたのかもしれない。それでも両親の思いはきちんと理解して受け止めていたはずだ。それに——。
「わたしは感謝しています。おかげでシャーロットに悪い虫がつかなかった」
「まあ」
 冗談めかすように口元を上げたリチャードを見て、夫人はくすくすと笑った。冗談めかしながらも本気でそう思っているということは、きっとわかっているのだろう。

 それからまもなくして楽団の演奏がやみ、ダンスを終えた。
 夫人と組んでいた手を離して一歩下がり、互いに礼をする。シャーロット以外の女性に心を奪われることはないが、シャーロットと似た部分がふと垣間見えると、不思議な気持ちにはなった。
「ダンス、とてもお上手ですのね」
「おかげでシャーロットに恥をかかせないですみました」
「ふふっ、それは母親としてありがたいですわ」
 その笑い方もドキリとするくらいシャーロットと似ていた。けれどシャーロットではなくて——。
「リチャード」
 一瞬、幻聴が聞こえたかと思った。
 振り返ると、そこにはグレイ伯爵にエスコートされたシャーロットがいた。幻聴でも幻覚でもない。リチャードはふっと甘やかに目を細めつつ手を差し出す。
「おかえり」
「ふふっ、ただいま」
 そう応じながら素直に手をのせてくれる彼女が愛おしい。果たすべき義務は果たしたのだから、もうこのまま帰ってもいいだろう。そう結論づけて彼女の手をひこうとしたのだが——。
「そうだわ、シャーロット、あなたに知り合いのご婦人方を紹介しておくわね。あちらの女性用の談話室にいるはずだから行きましょう」
 夫人が両手を合わせてそんなことを言い出した。そしてすかさずリチャードに振り向くとにっこりと笑みを浮かべる。
「構いませんわよね?」
「まあ、仕方ありませんね」
 リチャードは肩をすくめるしかなかった。
 行かせたくはないが、行かせたほうがシャーロットのためになるのは間違いない。女性だけの場だし、社交の面でも母親がついているので心配はいらないだろう。何より彼女自身が興味津々のようなのだ。
「では、行ってきますね」
「適当に時間を潰してるよ」
「はい」
 彼女は愛らしい笑顔を見せながら声をはずませた。そしてすぐにグレイ伯爵夫人のほうへ向かおうとしたが、そのとき何かに気付いてパッと顔をかがやかせる。
「ロゼリア様!」
 彼女の視線をたどると、そこには美しく盛装したポートランド侯爵夫妻がいた。すぐに侯爵は胸に手を当ててお辞儀をし、夫人は軽く膝を折る。リチャードとシャーロットはにこやかに応じて挨拶を交わした。
「そうだわ、よろしければロゼリア様もご一緒しません?」
「女性用の談話室に向かうところでしたの」
 シャーロットが思い出したように両手を合わせて誘い、後ろにいたグレイ伯爵夫人が言い添える。それを聞いてロゼリアはかすかに表情をやわらげた。
「ご迷惑でなければ、ぜひ」
 三人は各々の夫に会釈すると、おしゃべりをしながらその場をあとにした。
 シャーロットは何度かロゼリアとお茶会で一緒になっており、それなりに親しくしているらしい。彼女が同席するのであればよりいっそう心強いだろうと思う。

「さて、我々は我々で話でもしましょうか」
 グレイ伯爵の提案に、ポートランド侯爵はそうしましょうと素直に頷く。
 リチャードとしても、三人でいたほうが他の貴族に声をかけられなくてすむし、何よりグレイ伯爵——すなわちアーサーとは気心が知れているので楽でいい。そんな打算まじりの考えで応じることにしたのだが。

 そういえば、あらぬ噂を立てられてるんだった——。
 三人が男性用の談話室に入ると、あちらこちらから詮索するような好奇のまなざしが向けられるのを感じた。よくあることなので最初はあまり気にしていなかったが、年配の二人組がこちらを見ながらひそひそと揶揄するように話すのを目撃し、ようやく噂のことを思い出したのだ。
 リチャードが男色だとか、アーサーに懸想しているから娘を娶ったとか、ロゼリアと婚約解消したのもそのためだったとか、結婚して数か月たったいまでもまことしやかに囁かれている。その関係者である三人がこうして集まっているのだから、傍から見ればさぞや面白いのだろう。
「はー……」
 大きく溜息をつき、渋面でソファの背もたれに寄りかかって腕を組む。
「急にどうしました?」
「おまえとは別行動すべきだった」
「ああ……」
 アーサーはその意味するところをすぐに理解したようで、確認するようにチラッと周囲に視線を走らせる。それでも平然としたまま眉ひとつ動かさない。
「あなたなら注目されることくらい慣れているのではありませんか?」
「それでも、おまえとの仲を下卑た目で見られてると思うと居心地が悪い」
「元凶はあなたですけどね」
 うっ、とリチャードは言葉を詰まらせる。
 男色だと誤解されたことに関しては自分のせいではないと思っているが、それを放置したこと、女性に言い寄られるのを避けるために利用したことは自分の意思である。アーサーとの噂はその延長線上で生まれてしまったようなので、元凶と言われても否定はできない。
「でもまさかおまえまであんな噂を信じてたとはなぁ」
「こちらこそ娘が目当てだなんて思いもしませんでした」
「……おまえ、もしかして怒ってる?」
 彼の態度はさきほどからどことなく冷ややかで刺々しい。図星だったのか、その顔にほんのすこしだけムッとしたような表情が浮かんだ。
「十年もわたしを利用していたことを棚に上げて、自分だけが被害者と言わんばかりの態度をとられれば、腹が立つのも当然でしょう」
「悪かったよ」
 リチャードはそう苦笑まじりに応じたあと、すこし真面目な顔になる。
「だが、ひとつ言わせてくれ。おまえからシャーロットの情報を得ようとしていたのは事実だが、そのためだけに親しくしていたわけじゃない。おまえと一緒にいるのは純粋に楽しかったし、そもそも学生時代からけっこう好きだった……あ、いや、変な意味じゃなくてな!」
 誤解されかねない言いまわしだと気付いてあわてて釈明したものの、すべて本当のことだ。友人と呼べるのもアーサーしかいない。けれど彼はまだ信じられないらしく疑わしげな視線を投げかけてくる。
「結婚してから一度も手紙をいただいていませんが」
「あー……送るよ。今度はこっちがシャーロットの写真を添えて」
「期待せずにお待ちしています」
 そういえば何だかんだ忙しくしているうちに手紙のことを忘れていた。シャーロットを手に入れたので、無意識に優先順位が下がっていたというのはあるかもしれない。言い訳にしかならないが、まさか彼がそこまで手紙を楽しみにしているとは思わなかったのだ。

「お二人はずいぶん親しいのですね」
 会話が一段落すると、それまで黙って聞いていたポートランド侯爵が口を開いた。こころなしか驚いたような声音だ。こうして一緒にいるところを見るのは初めてなのかもしれない。リチャードはうっすらと挑発的な笑みを浮かべて彼を見つめ、言葉を返す。
「おかしな噂が立つのも道理だと?」
「いえ、そこまでは……」
「あなたも他人事ではありませんよ」
「えっ?」
 どうやらわかっていないらしい。彼の視線を誘導するようにゆっくりと隣へ目を向けると、案の定、興味深そうにこちらを窺っている連中がいた。彼らはギクリとしてぎこちなく顔をそむける。
「ここにいれば否応なく注目の的になります。わたしと奥方の婚約解消は誰もが知るところですし、こうしてわたしとあなたが話をしているだけで、何を噂されるかわかったものではない」
「確かに……」
 ポートランド侯爵は思案顔で頷く。
「ですが、妻はわたしのことを信じてくれていますし、わたしも妻を信じています。どんな噂を立てられたとしても揺らぎはしません。我がポートランド家も噂で揺らぐほど弱くはありません」
 淡泊な語り口だが、そこからは確固たる信頼が窺えた。
 きっと夫婦仲も上手くいっているのだろう。例の事件のせいでぎくしゃくする可能性もあると思っていたが、どうやら杞憂だったようだ。いろいろと因果関係のある自分としてもいささかほっとした。
「ウィンザー卿」
 あらたまった口調で名を呼ばれて、意識が引き戻される。
「せっかく縁あってご一緒する機会に恵まれたのですから、領地経営や産業について三人で有益な話ができればと思っているのですが」
「ええ、わたしは構いませんが」
 リチャードも次期後継者として領地経営に携わっている。ポートランド侯爵領にも少なからぬ関心を持っていたので、いい機会だと思った。アーサーも異議はないらしく素直に賛意を示していた。
 話は面白く、時間も忘れるくらいに盛り上がった。
 基本的にリチャードは親しくない相手と語らうことを好まないのだが、ポートランド侯爵は実直だからか話しやすかった。双方と親しいアーサーがいたおかげでもあったのかもしれない。

「キャーーーッ!!!」
 ふいに女性の甲高い悲鳴が聞こえた。談話室の外からだ。
 リチャードはハッとして跳ねるようにソファから立つと、迷わず飛び出していく。それがシャーロットの声でないことくらいわかっていたが、だからといって彼女が巻き込まれていないとはかぎらない。じわりと嫌な汗がにじむのを感じながら廊下を抜けると——。

「女性に許可なく触れるのはマナー違反です」
 ざわつく大広間で、視線の集まる先にシャーロットが立っていた。
 足元には二十代くらいと思しき男性が倒れている。顔は見えないが、盛装しているので宮廷舞踏会の招待客だろう。後ろではロゼリアが唖然とし、グレイ伯爵夫人が困ったように苦笑を浮かべていた。
「シャーロット!」
 声をかけると、彼女はこちらに振り向いて安堵の表情を見せた。たまらず一目散に駆けていき優しく抱きしめる。彼女の体から緊張がほどけていくのがわかった。
「うっ……」
 床に倒れていた若い男性が、小さく呻きながら腰を押さえてノロノロと体を起こしていく。リチャードはそれを一瞥すると、あらためて腕の中にいるシャーロットを見つめて問いかける。
「何があったんだ?」
「そちらの方が愛人になってやるなどとおっしゃるので、丁重にお断りして通りすぎようとしたのですが、肩を掴まれまして……」
 それでとっさに投げ飛ばしてしまったということだろう。彼女は何ひとつ悪くない。ただ——その全身を上から下までひととおり確認すると息をつく。
「無事でよかった。ドレスもはだけてないようだな」
「そこまで考えていませんでした」
 彼女は驚いたように目をぱちくりとさせるが、抵抗されたはずみなどで胸が露わになる可能性も十分にあったのだ。もしそんなことになっていたら相手の男を縊り殺していたかもしれない。
「さて……」
 そう言うと、まだ立ち上がれずにいる男の前でしゃがんで無遠慮に覗き込む。彼はビクリとして逃げるように身をのけぞらせたものの、その顔は認識できた。
「ダブリン侯爵の嫡男か」
 数年前、ほんの数分だが一度だけ会ったことを覚えている。王宮を訪れたときに、たまたま別の用件で来ていたダブリン侯爵に呼び止められ、挨拶のついでに跡継ぎだという息子を紹介されたのだ。
「愛人に立候補したって?」
「……めずらしいことではないでしょう。新婚なのに夫に顧みられない彼女をかわいそうに思っただけです。王宮でも憚ることなく本命とよろしくやっていたあなたに、とやかくいう権利はないと思いますけど」
 本命ってアーサーのことか——。
 うんざりして嘆息する。噂を信じるも信じないも自由だが、何の証拠もないものを根拠に喧嘩をふっかけるなど愚かとしか言いようがない。しかも次期公爵相手に。視野の狭さゆえか無知ゆえか自分の立ち位置さえわかっていないようだ。
「おまえがどう思おうと権利はある」
 そう告げると、彼の右手首をガッと勢いよく鷲掴みにした。
「えっ……?」
「この手か?」
「えっ???」
 行動の意味も、質問の意味も、愚かな彼には理解できないらしく困惑の表情を浮かべるばかりだ。リチャードは無表情のまま掴んだ手にギリギリと力をこめていく。
「シャーロットに触れたのはこの手かと聞いているんだ」
「ちょっ……痛っ……」
 顔をしかめて振りほどこうとするが、見るからに腕力のなさそうな彼では騎士団長のリチャードに敵うはずもない。
「本当はこの不埒な手を切り落としてやりたいところだが、今回だけは大目に見てやる。ただし再び妻に触れるようなことがあれば容赦はしない。ウィンザー公爵家を敵にまわす覚悟をしておけ」
 そう宣告すると、掴んでいた右手首を乱暴に放してすっと立ち上がる。見下ろした彼は床に倒れ込んだまま青ざめた顔をしていた。この様子ならもうおかしな気は起こさないだろうと安堵したが——。
「グレイ伯爵家も黙ってはいません」
「ポートランド侯爵家も追従しますわ」
 アーサーとロゼリアが冷ややかに追い打ちをかけた。夫人には何の権限もないが、当主であるポートランド侯爵が隣で頷いているので、ポートランド侯爵家の意向と考えて相違ないだろう。
 王家に連なる血筋のウィンザー公爵家、広大な領地と海運の要衝を抱えるポートランド侯爵家、堅実な領地経営で存在感を増しているグレイ伯爵家——この三家を敵にまわせば間違いなく孤立する。
 彼はますます青ざめ、あたふたと謝罪もしないまま逃げ帰っていった。

「何か、大事になってしまって申し訳ありません」
 彼の姿が見えなくなると、シャーロットがおずおずと恐縮したように謝罪した。しかしリチャードはふっとやわらかく目を細めて言う。
「シャーロットは何も悪くないよ」
 悪いのはあの男で、シャーロットはただ自分の身を守っただけである。そうしなければもっと触られていたかもしれないし、つきまとわれていたかもしれない。やりすぎということは断じてない。
 そして結果的にだが、良からぬことを考える貴族連中への牽制にもなったと思う。この騒動はすぐ社交界に知れ渡るだろうし、軽い気持ちでシャーロットに手を出そうとする輩はいなくなるはずだ。
「帰ろうか」
「はい」
 いろいろと慣れないことばかりでさすがに疲れたのだろう。シャーロットはほっとしたようにそう返事をした。そしてアーサーたちのいるほうにくるりと向きなおると、ドレスをつまんで軽く膝を折る。
「皆さん、ありがとうございました」
 それは形式的なものではなく心からの言葉に違いない。
「元気でな」
「お幸せにね」
「はい」
 両親から声をかけられると無邪気な笑顔で応えた。
 二人は明日の午前中には帰路につくことになっているため、ここでお別れとなる。だが彼らが王都に来る機会はこれからもあるはずなので、きっとそう遠くないうちに再会できるだろう。
「またお茶会をしましょう」
「ぜひ」
 ロゼリアの誘いにはうれしそうに声をはずませた。
 どうやら思った以上に親しくなっていたらしい。シャーロットが一方的に懐いているのではなく、ロゼリアも好意を持っているようだ。さきほどわざわざ援護したことからもそれは窺える。
「行きましょう」
 挨拶を終えると、シャーロットは身を翻してにっこりと笑う。
 それだけで胸が高鳴ってしまうものの顔には出さない。腕を差し出し、彼女をエスコートしつつ堂々とした歩みで王宮をあとにする。時折、とろけるような甘いまなざしをそっと隣に向けながら——。

 この後、リチャードの本命はシャーロットなのかアーサーなのかで論争が起こり、恋愛ゴシップ好きの連中が大いに盛り上がることになるのだが、帰路についた二人は知るよしもなかった。


INDEX:伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい


番外編 妃殿下は公爵家の新妻をかわいがりたい

 エリザベスは頭が痛かった。
 王妃として、ウィンザー公爵家の跡取りが結婚したことはめでたく思うが、その経緯と相手のことを考えると手放しで喜んではいられない。国王たる夫も一枚噛んでいるというのだからなおのこと——。

「そんなことより用件をおっしゃってください」
 そう言い放ったのは、件のウィンザー公爵家の跡取りであるリチャードだ。
 近況を尋ねたのだが答える気もないということだろう。侍女が淹れた紅茶にも軽く口をつけただけで、もう見向きもしない。さっさと用事を終わらせて帰りたがっていることは明白だ。
「おまえ、不敬罪で投獄されたいのか?」
「グッ……」
 王妃であるエリザベスに敬意を欠いた言動をすれば、当然、不敬罪になる。
 もっともこの程度のことで本当に罰しようなどとは考えていない。子供のころから交流のある知人となればなおさらだ。しかしながら彼の態度をあらためさせるには十分だったようである。
 エリザベスはふっと笑い、立ったまま傍らに控えている女官のひとりに目配せした。すぐに彼女はすっとリチャードのほうに進み出て、繊細な金の模様があしらわれた純白の封書を差し出す。
「どうぞ」
「ああ」
 そのとき、彼は宛名を目にしたらしくハッと小さく息を飲んだ。しかしすぐさま我にかえったように表情を消して受け取ると、ゆったりと紅茶を飲んでいたエリザベスのほうに向きなおる。
「これは、お茶会の招待状でしょうか?」
「さよう」
 妻のシャーロット宛てになっていたので察したのだろう。王妃が公爵家の妻と親交を深めるのはごく普通のことで、何もおかしくはない。むしろ責務といえる。リチャードもそのくらいのことはわかっているはずだが——。
「申し訳ありませんが、妻の社交については当家のほうで考えておりますので、この話はなかったことにしていただけませんか。初めてのお茶会が妃殿下主催というのはいささか荷が重いかと……」
「招待は取り消さない」
 エリザベスは居丈高に凛然とした声でそう告げた。手にしていた白磁のティーカップを静かに戻し、言葉を継ぐ。
「シャーロットの事情は聞いている。過保護な親のせいで幼少期より敷地外に出ることも許されず、成人年齢に達するやいなや、社交デビューもできぬままおまえと結婚させられたのであろう?」
「……ですから責任をもってわたしが」
「ろくに社交もせずひきこもっていたおまえに何がわかる」
 ピシャリと言うと、物言いたげな彼の鼻先に人差し指を突きつける。
「いいか、おまえたちは社交界であることないこと言われ、注目の的になっている。それゆえ誰も彼も手ぐすね引いて待っておるのだ。世間知らずの彼女などあっというまにいいようにされてしまうわ」
「わたしが付き添っていればいいでしょう」
「馬鹿者、それで根本的な解決になると思っておるのか」
 エリザベスはあきれた目を向けて溜息をつくと、再びティーカップを手に取り、それを面前に掲げるようにしながら話をつづける。
「わたくしのお茶会でゆっくりと社交の場に慣れてもらいながら、気をつけるべきところを教えていく。最初は二人きりでな。そうすれば王妃と懇意であると知らしめることもできるだろう」
「…………」
 無言のリチャードから疑わしげなまなざしを向けられるが、素知らぬ顔をして紅茶に口をつけた。
「心配するな。かわいいおなごを泣かせる趣味はない」
「あなたがそこまでしてくださる理由がわかりません」
「おまえたちが次期公爵夫妻だからだ」
 この国の安寧のためには、公爵家にも安寧でいてもらわなければならない。それはもちろん本当のことだが、それだけではなかった。この現状に個人的な責任を感じていたからというのもある。
 子供のころ、悪意はなかったが八つ年下の彼に横暴を働いていたのだ。
 彼が社交の場に姿を見せないのも、女性に興味を示さないのも、もしかしたらそれが原因なのかもしれないとひそかに思っていた。だからといってまさか幼女に走るとは思わなかったが——。
「承知しました……謹んでお受けいたします」
「楽しみにしておると伝えてくれ」
 彼は座ったまま一礼する。その表情には拭いきれない不安と葛藤が見てとれた。

 その日、空は穏やかに晴れわたっていた。
 せっかくなので、お茶会は王宮の奥まったところにある小さな庭で行うことにした。そこは基本的に王族と側仕えしか立ち入ることのできない場所だ。外とはいえ盗み見られることもないだろう。
「お招きにあずかり光栄に存じます。シャーロット・ウィンザーです」
 招待客のシャーロットは指定した時間どおりに姿を現した。エリザベスを前にしても緊張した素振りはなく、やわらかく微笑んだまま丁寧に膝を折って敬意を表する。所作は文句なく美しい。
 ただ——顔立ちに幼さが残るせいか、無垢な雰囲気のせいか、どうしても成人年齢に達しているようには見えない。まるで幼気な少女である。こんな子を強引に娶ったのかと思うと頭が痛いが、いまはおくびにも出さない。
「堅苦しいのは抜きにして楽しもうぞ」
「ありがとうございます」
 テラスには白い丸テーブルと椅子がしつらえられており、そこに二人で座った。彼女はきらきらと目をかがやかせながら庭を眺めていく。
「とてもかわいらしいお庭ですね」
「王族の私的な庭でな。滅多に人を呼ばぬのだぞ」
「ふふっ、リチャードと結婚してよかったです」
 小さく笑いながらそんなことを言う彼女につられて、エリザベスも笑顔になる。まわりの雰囲気もすこしやわらかくなった気がした。
「その薄紫色の花もバラなのですか?」
「さよう、この庭でしか咲いておらぬ品種だ」
「とても上品できれいですね」
「気に入ったなら帰りに数本持っていくか?」
「わあ、ありがとうございます!」
 こういうとき招待客はたいてい恐縮したり遠慮したりするのだが、それがマナーというわけではない。彼女のように何のてらいもなく素直に喜びを表してくれるのも、存外に悪くないと思う。
 話が一段落したところで、ティーセットとケーキスタンドが運ばれてきた。侍女により手際よく支度が調えられていく。
 ただ、紅茶をそそぐのは招待主であるエリザベスの役目である。手ずからティーカップに入れ、それを冷めないうちに飲むようシャーロットに勧めると、彼女はいただきますと口に運んだ。
「おいしい……わたしが好きな紅茶と似てますけど、それよりもコクがあります。サンドイッチにもケーキにも合いそうですね」
「そちらも食べて構わぬぞ」
「催促してしまったようですみません」
 そう言って肩をすくめつつも、遠慮なくケーキスタンドから自分のプレートに取り分けていく。それを微笑ましく眺めながら、エリザベスはもうひとつのティーカップにも紅茶をそそいだ。

 不思議な子だな——。
 初めて王妃と会うときには大なり小なり緊張するものだ。成人してまもない若い子であればなおのこと。不興を買わないように気に入られるようにと考えすぎて、どこかぎこちなくなるのが普通である。
 しかし、シャーロットにはそれがない。
 世間知らずであるがゆえに、王妃をまえにしても無邪気でいられるのかもしれない。しかしながら無礼にならない程合いはわきまえている。それが何とも絶妙で興味をひかれずにはいられなかった。

「そろそろ故郷が恋しくなってきたのではないか?」
 シャーロットの父であるグレイ伯爵の話題でひとしきり盛り上がったあと、話の流れでそう尋ねてみた。彼女はわずかに目を見張るが、すぐにふっと何か思案をめぐらせるような面持ちになり静かに話し始める。
「そうですね……両親や弟たちに会いたい気持ちはありますけど、寂しいというほどではありません。いまはとても充実した日々を送っていますので。わたし、意外と薄情なのかもしれませんね」
 最後はそう冗談めかして軽く肩をすくめた。つられてエリザベスの口元が緩む。
「いや、寂しくないのであれば何よりだ」
「皆さんによくしてもらってますので」
「リチャードとも上手くやっておるのか?」
「はい」
 彼女を招待したのはこのあたりのことを聞くためでもあった。いまのところつらい思いをしているような様子は見受けられないが、だからといって安心はできない。
「そなたに無理を強いておらねばよいが」
「リチャードはいつもわたしを尊重してくださいます。わたしの希望ですこしずつですが家の仕事もさせてもらってますし、侍女と街に出かけたりもしています。リチャードが休みとのきはもちろん彼と過ごしますけど」
 ほう、案外まともなのだな——。
 執着のほどからして、ひたすら家に閉じ込めてかわいがっているだけなのかと思っていた。家の仕事はまだしも、侍女を連れているとはいえ単独の外出を許していることが驚きである。
「では、困っていることはないのだな?」
「仕事に行きたくないと駄々をこねるくらいですね」
「ははっ、今度顔を合わせたら説教しておこう」
 正直、彼女のことはリチャードに捕まったかわいそうな子だと認識していたし、世間知らずゆえ彼のいいようにされているのではないかと心配していた。しかし話をするにつれてその印象は覆されていく。
 案外、主導権を握っているのは彼女のほうかもしれないな——。
 そう思うと愉快でたまらなかった。

 再びティーカップに手を伸ばそうとしたとき、女官がそそくさと近づいてきて短く耳打ちした。エリザベスはひとつ頷いて返事をする。
「通してくれ」
「かしこまりました」
 女官は一礼して足早に戻っていった。
 その様子を見ていたシャーロットは不思議そうな顔になる。
「どなたかいらっしゃるのですか?」
「すまないな、実はもうひとり呼んであったのだ」
「まあ、そうなのですね」
 もともと二人きりでという話だったので、不審に思ったり不快に感じたりしてもおかしくないのに、すこしもそんな様子は見られない。それどころか屈託のないうれしそうな笑みを浮かべている。
「誰だか気にならぬのか?」
「これから紹介してくださるのでしょう?」
「ああ……」
 なんとも掴みどころがなく、本音なのかごまかしているのかさえわからない。エリザベスのほうが振りまわされてしまっている。
 カツン——。
 そのとき、ふいに高い靴音があたりに響いた。
 振り向いた先にいたのは招待していたもうひとりの女性だ。こうして間近で顔を合わせるのはしばらくぶりであるが、その容色はすこしも衰えていない。むしろ輝きが増したように見える。
 ただ、あいかわらず愛想は足りない。彼女は笑みひとつ浮かべることなくまっすぐ前を向いたまま、白い椅子に座るエリザベスのもとへたおやかに進み出て、流れるように膝を折る。
「お招きにあずかり至極光栄に存じます」
「座ってくれ」
 空いた椅子を示すと、彼女は隣のシャーロットにも軽く会釈してから腰掛けた。そしてしんと静まりかえったところでエリザベスが口を切る。
「紹介しよう。こちらはウィンザー侯爵夫人のシャーロット、そしてこちらはポートランド侯爵夫人のロゼリアだ」
「えっ……?!」
 二人とも驚いたように顔を見合わせた。
 面識はなかったようだが、相手がどういう人物であるかは知っていたのだろう。互いに当惑を隠せないまま気まずい空気が流れていく。やがてロゼリアが耐えかねたようにそっと目をそらし、口を開く。
「エリザベス様……お人が悪いですわ……」
「そなたたちを思ってのことだ」
 エリザベスはとりすまして答えた。
「シャーロットが社交界に出るなら顔を合わすことは避けられんし、話題を振られることもあるやもしれん。そうなるまえに、できるかぎりわだかまりを解消しておいたほうがよいであろう?」
 わだかまりが何か、二人なら言うまでもなくわかっているはずだ。
 その原因である例の事件はいまのところ表沙汰になっていないが、いつ噂が広まってもおかしくないし、そうでなくても他のさまざまな噂で注目の的になっている。おかしな反応を見せれば炎上必至だ。
 ちなみにエリザベスがなぜ例の事件を知っているかというと、夫である国王に聞かされたからだ。王妃として知る必要があると。そして国王はリチャードから私的に報告を受けたとのことである。
 話を聞いてロゼリアはうつむいた。しかしすぐさま心を決めたようにすっと表情を引き締めると、そのまま立ち上がってシャーロットのほうに向きなおり、頭を下げる。あわててシャーロットも椅子から立った。
「わたくしのせいであなたを危険にさらしたことを心より謝罪します」
「いえ、どうかもうお気になさらないでください」
 謝罪を受けたシャーロットのほうが申し訳なさそうだ。夫のリチャードにも非があることを理解しているが、それを口にすればかえってロゼリアの矜持を傷つけかねない。だから謝罪したくても謝罪できずにいるといったところか。
「これで水に流すということでよいな?」
 助け船を出すと、二人はどこかほっとしたように頷き合って腰を下ろした。まだぎこちなさはあるが、お茶会を経ればそれなりに自然に話せるようになるだろう。友好なふりさえできればいいのだ。
 だが、もしかすると——。
 ロゼリアはいつも無難に社交をこなしつつも一線を引いているが、シャーロットなら彼女の心を開けるかもしれない。そして本当に仲良くなってしまうかもしれない。そんな予感がしていた。
「さあ、お茶会の再開だ」
 エリザベスは仕切りなおすようにそう声を張ると、新しい白磁のティーカップに紅茶をそそぎ、ロゼリアに差し出した。


INDEX:伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい


番外編 公爵家の騎士団長は新妻のいとこを牽制したい

 それは、休日の朝に響いた呼び鈴から始まった。

 常識的にいって来客にはすこし早い時間だ。約束もなかったので、執事に対応を任せて妻のシャーロットとゆっくりダイニングを出ると、そのとき玄関のほうがやけに騒がしいことに気がついた。
「さっきの来客か……君はここにいて」
「はい」
 シャーロットを残し、いささか緊張しながら玄関の様子を見に向かう。よほどの馬鹿でもないかぎり、正面きって公爵家に殴り込みには来ないだろうが、よほどの馬鹿はいつの時代にもいるのだ。
「僕はシャーロットと話をしたいだけなんだ!」
 耳に届いた名前にドキリとする。
 そこには十代半ばくらいの見知らぬ少年がいた。執事が丁寧にお引き取り願っているにもかかわらず、しつこく食い下がっている。しかし気配を感じたのかふとこちらに目を向けると、ハッと息を飲む。
「おまえがリチャード・ウィンザーだな!」
 そう指差しながら叫んで駆け出そうとしたものの、一瞬で執事に組み伏せられた。腕を取られたまま硬い大理石の床に押しつけられて、苦しそうに顔をしかめて呻く。
「えっ、アレックス?!」
 声を上げたのはシャーロットだ。向こうにいるよう言い置いたはずだが、自分の名前が聞こえたので来てしまったのだろう。リチャードの後ろで、組み伏せられた少年を目にしたまま唖然としている。
「知り合い?」
「いとこです」
「ああ……」
 リチャードは溜息をつき、組み伏せられた少年を横目で見ながら腕を組んだ。

 アレックス・グレイ——。
 父親はグレイ伯爵家の次男として生を受けたが、爵位を得ていないため、息子のアレックスはあくまでも平民である。ただ金銭的には余裕があり、何不自由ない恵まれた暮らしを送っている。
 シャーロットのいとこで現在十四歳。
 幼少期には父親や母親に連れられて頻繁にグレイ邸を訪れていた。二歳下の弟が生まれてからは、弟も一緒のことが多かった。二人ともシャーロットの貴重な遊び相手だったと推察される。
 四年前、十歳からは王都の全寮制パブリックスクールに在籍している。成績は中の上。素行もまずまず。ただ行事においても勉学においても積極性は見られず、基本的に指示に従うだけである。

 それが、リチャードの記憶にあるアレックス・グレイの情報だ。
 婚姻にあたり、グレイ伯爵家と親類縁者については調査したので、いとこである彼のこともひととおり頭に入っている。ただ、顔までは知らなかった。報告書に写真はなかったし会う機会もなかったのだ。

 応接間のソファで腕を組んだまま小さく溜息をつくと、向かいの彼はビクリとした。
 約束もなく押しかけてきたのだから追い出してもよかったが、後日また来られても面倒なので、とりあえずシャーロットとともに話を聞くことにしたのだ。後ろには執事と侍女が控えている。
「それで、アレックス、君はどういう用件で来た?」
「……シャーロットと二人だけで話をさせてほしい」
「話ならここでしろ」
 ついリチャードはきつい口調で返してしまった。幼なじみであろうがいとこであろうが異性なのだ。どうあっても二人きりになどできるはずがない。圧倒されたようにアレックスは顔を硬くしてうつむいた。
「二人だけというのは無理だけど、いまここでなら聞くわ」
 シャーロットがあらためてそう静かに声をかけると、彼は下を向いたままわずかに眉をひそめて逡巡し、やがてそっと口を開く。
「本当に結婚したんだね」
「ええ」
 緊張からか、怒りからか、アレックスの体にグッと静かに力が入った。膝の上のこぶしも強く握り込まれていく。
「どうして教えてくれなかったの?」
「ご実家には招待状を出したわよ」
「僕は聞いてないっ!」
 はじかれたように顔を上げて彼はそう声を上げた。訴えかけるような、どこか泣きそうなまなざしでじっとシャーロットを見つめる。それでも彼女は揺らがなかった。
「それは、ご実家のほうの問題ね」
「個人的に教えてくれてもよかっただろ」
「どうして?」
 ただ純粋に疑問を呈され、アレックスは返す言葉をなくしてしまったようだ。つらそうな顔を隠すようにうつむいていく。膝の上のこぶしはかすかに震えているように見えた。

 なるほどな——。
 アレックスの両親からは、息子は学校があるので結婚式を欠席すると聞いていた。そのときは特に疑問に思わなかったのだが、結婚することすら伝えていなかったとなると、学校は口実なのだろう。
 彼はおそらくシャーロットに恋心を抱き、執着している。
 両親もそれを知っていたのだ。だから縁談を妨げるようなことをしでかすのではないかと危惧し、結婚式が終わるまで秘密にしていたに違いない。そしてそれは賢明な判断だったと言える。

「駆け落ちでもするつもりだったか」
「かっ……?!」
 鎌をかけてみると、彼はぶわりと顔を赤らめて動揺した。
「そんなんじゃない! 僕はただシャーロットを救いたかっただけだ! 貴族の結婚は親が決めるものだって話は聞いてたけど、いくらなんでも幼女趣味のおっさんに嫁がされるなんてあんまりだろ!」
 おっさんはともかく幼女趣味ではない。
 いったい彼はどこでそんなことを聞いたのだろう。否定したいが、下手に触れると藪蛇になりかねない。隣ではシャーロットがうつむきながら笑いをこらえていて、じとりと横目を送る。そのとき——。
「シャーロット、僕が守るから離婚しよう!」
「えっ?」
 ダンッとローテーブルに手をついて身を乗り出したアレックスが、そんなことを言い出した。驚いて目をぱちくりさせるシャーロットを覗き込むように見つめる。思わずリチャードは彼の顔面をつかんで力尽くで押し戻した。
「ぶっ……、何するんだ!」
 アレックスは背中からソファに落ち、威勢よく喚きながら体を起こしてキッと睨めつける。リチャードはわずかに顎を上げて冷ややかな視線を返した。
「あまり調子に乗るなよ」
「公爵だか何だか知らないけど恥ずかしくないのかよ! 同級生だったアーサー伯父さんの娘に目をつけて、差し出させるなんて! しかも国王命令で断れないようにしたとか卑怯だろ!」
 そんなことはいまさら言われるまでもない。すべて自覚したうえでの行動だ。まじろぎもせずアレックスを見据えつづける。
「権力だろうが、縁故だろうが、自分が持っているものを使って何が悪い」
「シャーロットやアーサー伯父さんの気持ちを無視しておきながら最低だな!」
「君に責められる謂われはないな」
 そう受け流すと、腕を組みながらソファの背もたれに身を預ける。
「そんなに大事ならとっとと婚約すべきだったんだ」
「えっ?」
「どうせシャーロットと会える立場に甘えて何もしてこなかったんだろう。シャーロットに好きになってもらう努力も、アーサーに認めさせる努力も。なのに他の男にさらわれて慌ててピーピー喚き立てるのは恥ずかしくないのか?」
 もしウィンザー公爵家が縁談を持っていくまえに正式に婚約していたなら、リチャードはあきらめるしかなかっただろう。さすがに婚約を解消させるような非道な真似まではしない……多分。
「どのみちもう手遅れだ」
 そう告げると、彼は羞恥のにじんだ顔をくやしそうにゆがめて目を伏せた。それでもリチャードは追撃の手を緩めない。
「シャーロットはすでに正式に私の妻となっている。離縁も絶対にしない」
 可能性など微塵もないのだと思い知らせるように、力強く宣言する。
「君とは姻戚関係だから今回は大目に見るが、今後シャーロットにつきまとい離縁をそそのかすようなことがあれば容赦しない。公爵家を敵にまわせばどうなるか一家で思い知ることになるだろう」
「えっ……」
 驚いたアレックスから血の気がひいていく。
 返事はなかったが、ここまで言えばもう馬鹿な真似をしようとは思わないはずだ。たとえ何か仕掛けてきても退けるまで。いかなることがあってもシャーロットだけは手放さない。絶対に——。

「アレックス」
 執事に促されて玄関からとぼとぼと出て行こうとする彼に、シャーロットが後ろから声をかけた。ほんのわずかに振り向いた生気の感じられない横顔を見て、彼女は申し訳なさそうに薄く微笑む。
「わたし、リチャードが好きなの。いまとても幸せよ」
「……そう」
 アレックスは顔をそむけてぽつりと一言だけ返した。そのまま弱々しい足取りでふらりと出て行き、見るからに打ちひしがれた後ろ姿が遠ざかっていく。執事はゆっくりと扉を閉めた。

 はぁ——。
 リチャードは大きく息をつきながら、後ろから寄りかかるようにしてシャーロットを抱きしめた。腕の中におさまる柔いぬくもりに、確かにシャーロットはここにいるのだと実感してほっとする。彼女はされるがまま受け入れてくすくすと笑った。
「すこし大人げなかったんじゃないかしら」
「不安なんだよ」
 拗ねたような声で弱音を吐露する。
 彼女が心変わりするなどと思っているわけではないが、それでもアレックスと自然体で話しているのを見ていると、冷静ではいられなかった。年齢的には彼のほうがつりあっているからなおのこと。
 そんな心の機微をどこまで察しているかはわからないが、背後からまわしたリチャードの手に、彼女はそっとやさしくなだめるように自分の手を重ねた。そこから不安がほどけていくのを感じたが——。
「アレックスは騎士を目指しているの」
「へぇ……」
 いきなり何の脈絡もなく爆弾を落とされて、低い声が口をつく。
 おそらく騎士に憧れるシャーロットの気を惹こうとしていたのだろう。それなりに努力はしていたらしい。彼女の結婚を知ったいまはもうあきらめていると思いたいが、不安は残る。
「もし騎士になったら、あなたの部下になるのかしら」
「まあ、そうだな……」
 とはいえ騎士団長の自分と直接的に関わることはあまりないはずだ。それでも顔は合わせるだろうし、もしかしたらシャーロットともそういう機会があるかもしれない——思わず渋い顔になったそのとき。
「あまりいじめないでくださいね?」
 彼女がちらりと振り向いて小首を傾げた。
 その言い方に、仕草に、表情に、一瞬で毒気を抜かれてしまった。ペリドットのような緑色の瞳を見つめ返したまま、うっすらと微笑んで口元を上げる。
「どうかな、俺は大人げないから」
「まあ」
 シャーロットは再びくすくすと笑い出した。
 そのぬくもりを感じながら、リチャードは閉じ込めた両腕にやわらかく力をこめる。執事がわざとらしく咳払いするのが聞こえたが、素知らぬふりをして彼女のこめかみに口づけを落とした。


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番外編 公爵家の次期当主は愛する新妻とデートしたい

 結婚式のあと、ウィンザー公爵家の若夫妻となったリチャードとシャーロットは、しばらく領地で過ごしてから王都のタウンハウスに戻った。この地で、この家で、これから二人の新たな日常が始まるのだ——。

「数日したら非番だから、そのときは二人で街に遊びに行こう」
 結婚休暇を終え、久しぶりに騎士団の仕事に出かけようというところで、リチャードは見送りのシャーロットにそう言った。唐突だったせいか、彼女はすこし驚いたように目をぱちくりとさせる。
「お仕事のほうはよろしいのですか?」
「ああ……」
 タウンハウスに戻ってからの三日間は、不在時にたまった書類などを処理するのに必死で、とても遊びに行くどころではなかった。だが、もうあらかた片付いたので一日くらいなら問題ない。
「急ぎの面倒な案件さえ来なければな」
「ふふっ、では祈っておきますね」
 シャーロットの顔にふわりと笑みが浮かぶ。
 クッ——あまりの愛らしさにリチャードは心を射抜かれた。もう騎士団になんか行きたくない。いますぐ一緒に街で遊びたい。もしくは部屋にこもって戯れたい。けれど、そうはいかないことくらいわかっている。
「……行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
 にっこりとするシャーロットにつられるように微笑み返し、そのままじっと見つめていると、彼女の後ろに控えていた執事がわざとらしく咳払いした。
「わかってるよ」
 リチャードは彼女の頬に口づけ、ひどく名残惜しく思いながらも家をあとにした。


 約束の日、王都の空は穏やかに晴れわたっていた。
 幸いにも急ぎの仕事が来なかったため、何の問題もなく予定どおりシャーロットと街に出かけることになった。よほどのことがなければ行くつもりでいたこともあり、事前準備は万端である。
 まずは馬車で劇場に向かう。シャーロットは結婚前にカーディフの街で見た大衆演劇を気に入っていたが、今日は古典的な歌劇だ。娯楽というより芸術としての側面が強いためにいささかとっつきにくい。
「歌劇も見てみたいと思っていたんです」
「あー……君の好みに合うかはわからないぞ?」
「それを知ることも楽しみです」
 屈託なく答えるシャーロットはとても眩しかった。
 深いブルーグリーンを基調とした大人びたドレスを着ているのに、時に子供のように無邪気になる。そんな彼女が愛おしくて、このときは何の憂いもなくただ心をはずませていたのだが——。

「で、そちらが噂の奥方ですかな?」
「ええ……妻のシャーロットです」
「はじめまして」
 シャーロットが軽く膝を曲げて挨拶すると、声をかけてきたレディング侯爵の顔がほころぶ。ただしまなざしだけは鋭く隙のないままで。
「これはかわいらしい。グレイ伯爵が過剰なくらいに大事にしていたのも頷けますな。あまり蔑ろにしては彼の不興を買ってしまいますぞ」
「ご心配には及びません」
 苛立ちを隠し、笑みさえ浮かべながらリチャードはさらりとそう返した。

「開演時間ギリギリに来るべきだったな」
 予約した席に座るなり、リチャードはぐったりとして溜息まじりにぼやく。
 浮かれて早く来たのが間違いだった。劇場に着くなり、たいしてというかまったく親しくない貴族たちが次々に声をかけてくるのだ。ここが社交の場のひとつであることをすっかり失念していた。
 めったに姿を見せない公爵家の嫡男が現れれば、そうもなるだろう。
 ただ、今回はリチャードというより妻が目当てだったのかもしれない。ずっと領地にいて社交デビューもしていない彼女にみんな興味があったようで、値踏みするように不躾に観察していた。
「すまなかった、こんなことになるなんて思ってなくて」
「いえ、これも妻の役目だと心得ています」
 隣のシャーロットはにっこりとしてそう応じるが、ふと思い出したように真面目な顔になると、口元に手を添えてささやく。
「それより……やはりみなさん例の誤解をしているようですけど、きちんと訂正しておかなくてよろしかったのですか?」
「あー……」
 例の誤解というのは、リチャードがアーサーに懸想しているということだ。
 少なくないひとが挨拶を交わしながら暗に揶揄していた。アーサーの身代わりとして娘を娶ったと信じているのだろう。自分はともかく、シャーロットにまで好奇の目を向けられるのは腹立たしい。
 しかしながら訂正するのも簡単ではない。いまになって急に事実無根と訴えたところで信じてもらえない可能性が高い。何かしら不都合があって火消しをしていると思われるのが関の山である。
「いずれ何か上手い方法を考えるよ。君には嫌な思いをさせてしまうかもしれないが、もうしばらく我慢してもらえるとありがたい」
「わたしは気にしていませんので」
 本当に気にしていないかのようにさらりと答える。
 可憐な見目にもかかわらず意外と肝が据わっているのだ。だからといって何も感じないわけではないだろう。申し訳なく思いつつも、いまはただ素直に感謝して微笑み返すしかなかった。

 公演が始まると、シャーロットは舞台に釘付けになった。
 今回は舞台正面のロイヤルボックスなのでとても見やすいし、音響も悪くない。そしてまわりを囲われているので視線を気にせず落ち着ける。彼女にもきっと満足してもらえているのではないかと思う。
 歌劇はとある国の王子が東国の姫に一目惚れして求婚する話である。姫と結婚するために提示された三つの難題を解き、命を懸けて試練に立ち向かい、最後には頑なだった姫の心をとかして結ばれるのだ。
 まだ若いころ——シャーロットと出会うまえだが、リチャードは教養の一環としてこの歌劇を観たことがあった。当時はそこまでして姫を求める王子を愚かしいと思ったが、いまはその気持ちがわかる。
 俺だって——。
 ちらりとシャーロットの横顔を窺う。
 直接的に命を懸けたわけではないが、彼女を得るために騎士団長になろうと危険も厭わず仕事をしてきた。十年が過ぎても彼女を得たいという気持ちは薄れなかった。理屈ではないのだ。
 そして、それは間違いではなかったと確信している。

「楽しめたか?」
 幕が下りたあと、まだ余韻にひたっているシャーロットに声をかけると、彼女はハッと我にかえったように振り向いて大きく頷く。
「すごかったです。歌が……人間にこんな力強く豊かな声が出せるなんて……体や心の奥底にまで響いてきて感情を揺さぶられました。カーディフの街で見た演劇も面白かったのですけど、こちらには本当に圧倒されて……」
 ほんのりと頬を火照らせながら興奮ぎみに声をはずませ、目もかがやかせ、心からそう思っているのだということが伝わってくる。これほど感動してもらえるのなら連れてきた甲斐があった。
「気に入ったのならまた一緒に来よう。今度は他の演目で」
「はい!」
 シャーロットが元気よく満面の笑みで応じる。そんな彼女をたまらなく愛おしく思いながら、リチャードは甘く微笑み返した。

「あっ……このあたり、何となくですけど覚えています」
 劇場を出て、次の目的地のほうに足を進めていたところ、シャーロットがふいにそう声を上げた。ゆるやかな下りの坂道を指差しながら言葉を継ぐ。
「確か、こちらを行くと青空市場がありましたよね?」
 十年前、王都で暮らしていたときのことを言っているのだろう。例の誘拐事件のせいで一、二週間ほどしかいなかったが、市場が気に入っていたようだとアーサーから聞いたことがある。
「行ってみるか?」
「えっ、でもこのあと予定があるのではないですか?」
「すこしくらい寄り道しても構わないよ」
 そう言うと、まだ迷っている彼女の手をとって横道へ足を向ける。彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開いたものの、すぐに笑顔になり、ストロベリーブロンドの髪をなびかせながら隣に並んだ。

「わたしたち、もしかしてだいぶ浮いてません?」
 青空市場につくと、シャーロットはちらちらと周囲に視線を走らせて、隣のリチャードにだけ聞こえる声でそうささやいた。場所柄、盛装をした自分たちが浮いているのは確かだが——リチャードはふっと微笑む。
「何も悪いことはしてないんだから堂々としてればいい。まあ興味本位のまなざしは向けられるだろうが、これくらいで眉をひそめるようなひとはいないよ」
「わかりました」
 シャーロットは気を取りなおしたようにそう答えてニッコリとした。もう他人からどう思われるかは構わないことにしたのだろう。歩きながら目をかがやかせてあちらこちらの露店を眺める。
「雰囲気は十年前とそんなに変わってないだろう?」
「はい……こんなふうに果物や野菜が山盛りになっているのを見るのが好きで、よく買い出しについていってました。みなさん優しくて、幼いわたしにもよくしてくださったことを覚えています」
 懐かしむようにシャーロットの顔がやわらぐ。
 それだけでここに寄り道してよかったと思えた。ひときわ目をひく果物の山のまえで足を止め、せっかくなので何か買っていこうかと考えていると。
「誰かと思ったらリチャードじゃないか!」
 驚いたようにそう言われて顔を上げる。
 そこにいた店員は、以前、ちょっとした事件で顔見知りになった女性だった。数年前まで騎士団員として街を見回っていたこともあり、住人たちとはけっこう面識があるのだ。
「お久しぶりです」
「随分とめかし込んでるねぇ」
「観劇の帰りなんですよ」
 そんな立ち話をしていたところ、女性店員が一歩後ろにいるシャーロットに気付いたようだ。目が合ったらしくシャーロットが会釈する。いい機会なので彼女を紹介しておこうかと思ったそのとき。
「その子、まさかあんたの?」
 女性店員がこっそりと小指を立てながら声をひそめた。
 確か、小指を立てるしぐさは親密な女性を意味していたはずだ。彼女の態度をいささか怪訝に思いつつも「そうですが」と返事をする。すると彼女はひどく非難がましいまなざしになり溜息をついた。
「成熟した女に興味が持てないのかもしれないけどね、子供に手を出すのはやめな。いい大人なんだから無責任なことはするんじゃないよ」
「いや、ちょっと待ってください!」
 そこまで言われて、ようやくあらぬ誤解をされていることに気がついた。あわてて一歩後ろにいたシャーロットを抱き寄せると、真面目な顔で言う。
「こちらは妻のシャーロットです」
「……つま……妻ぁ?!」
 目を丸くした女性店員がすっとんきょうな声を上げた。そのせいで一気にまわりの注目を浴びてしまうが、リチャードはいっさい動じることなく言葉を継ぐ。
「もう十六歳なので子供ではありませんよ」
「それは、勘違いして悪かったね」
 彼女は素直に謝罪の言葉を述べたものの、再び溜息をつく。
「だけど十六ってのもね……あんたからすりゃ十六なんて子供みたいなものだろう。まあ成人ではあるし、合法的に結婚したのならとやかくは言えないんだけどさ。金や権力にものを言わせて強引に娶ったんじゃないのかい?」
「ご想像におまかせします」
 言っていることがそこそこ当たっているだけに耳が痛い。だからといっていまさら懊悩も後悔もしない。さらりと笑顔でかわしてその場を離れようとしたが。
「あの……」
 それまで黙っていたシャーロットが遠慮がちに口を開いた。
 一斉に周囲の人たちが振り向き、その視線に彼女はすこし気圧されていたようだが、すぐに仕切りなおして女性店員のほうに目を向ける。
「わたしはリチャード様を心よりお慕いしております。確かに世間一般の夫婦より年齢差はあるのかもしれませんが、こうして夫婦になれてよかったと思っていますし、とても幸せです」
 そう告げると、ふわりと花が咲くように微笑んだ。
 瞬間、わぁっと大きな歓声や拍手がまわりから沸き起こる。女性店員もあははと豪快に笑っていた。そして思い立ったようにオレンジをいくつか紙袋に入れると、シャーロットに押しつける。
「わたしからの結婚祝いだよ、持っていきな!」
「わあっ、ありがとうございます」
 シャーロットがはしゃいだ声を上げた。
「うちからもどうぞ」
「これも持っていって」
「わたしも」
 別のところの店員や居合わせた客などが、こぞってシャーロットの抱える紙袋にさまざまな果物を入れていく。やがて彼女ひとりでは抱えきれないほど山盛りになり、リチャードが代わりに持った。
「つらいことがあったらいつでも逃げておいで。守ってあげるからね!」
 件の女性店員がドンと胸を叩くと、シャーロットはくすくすと笑いながら頷いた。
 リチャードは苦笑するが、彼女が受け入れられたことについては喜ばしく思う。いざというときのために頼れるひとはいたほうがいい。もちろんそんなことがないよう心がけるつもりだけれど。
「二人ともまたいつでも顔を出しておくれ」
「はい、ありがとうございました」
 居合わせたひとたちにもあらためて二人で礼を述べて、その場をあとにした。あかるく賑やかな見送りの声を背後に聞きながら——。

 次の目的地は喫茶店である。
 寄り道をしたため予約時間から少し遅れての到着となった。めったに満席にならないので本来なら予約の必要もないのだが、シャーロットのために最良の席を用意したくて、確保を頼んでおいたのだ。
「落ち着いた素敵なところですね」
 案内されて席につくと、彼女はあたりを見まわしながら感嘆の声を上げた。
 調度品や内装はどれも上質で、暖色の灯りとあいまって統一感のある優美な空間を作り出している。そのうえ奥まった席なので他の客の目を気にしなくていい。彼女も喜んでくれたようで一安心である。
「アーサーが王都にいるときはよく一緒に来てたんだ。あいつ、ここの茶葉をよく里帰りのおみやげにしてたみたいだから、君も飲んだことあるかもな」
「おみやげの紅茶はいつも楽しみにしていました。この店のだったんですね」
 シャーロットはそう言って微笑む。
 ここは基本的に喫茶のみだが、紅茶好きのアーサーはいつのまにかオーナーと懇意になり、おみやげにしたいからと稀少な茶葉も分けてもらっていたのだ。もちろん相応の代金を払って。
「失礼いたします」
 会話が途切れたタイミングで声がかかる。
 振り向くとオーナーがいた。リチャードよりも幾分か年上と思われる物腰のやわらかい男性で、いつもと同じく執事のような衣装を身にまとっている。彼はすっと進み出ると恭しく一礼した。
「リチャード様、シャーロット様、このたびはご結婚おめでとうございます」
 そう述べて、後ろに控えていた店員から手提げ袋を受け取り、ソファに座っているリチャードのほうへそれを差し出す。
「心ばかりですが、よろしければお祝いとしてお納めください」
「ああ、ありがとう……喜んでいただくよ」
 思いもよらないことにリチャードはすこし驚きつつも、にこやかに受け取った。
 チラリと中を確認したところ茶葉とジャムのようだ。向かいでそわそわしているシャーロットもきっと喜んでくれるだろう。茶葉は言わずもがな、ジャムも果実感が強くてなかなか美味なのだ。
「わたしが結婚したことはどちらで?」
「先日、グレイ伯爵から伺いました」
「ああ……」
 そういえばアーサーは結婚式のあとで王都に寄ると言っていた。そのときだろう。いったいどこまで話したのかは気になるところだが——ポーカーフェイスの得意なオーナーからは窺い知ることができなかった。

「今日は行く先々で声をかけられたな」
 オーナーが下がると、リチャードはメニューを開きながら思わずそうぼやいた。
 何せこれがふたりの初めての正式なデートなのだ。できるなら誰にも邪魔されることなく一日を過ごしたかった。ふたりだけの世界にひたっていたかった。それが偽らざる正直な気持ちである。
「わたしは祝っていただけてうれしかったです」
「まあ、それならよかったけど……」
 確かにシャーロットは青空市場での祝福に無邪気な笑顔を見せていたし、喫茶店のオーナーからもらった結婚祝いにも興味を示していた。ただ——。
「さすがに貴族連中にはうんざりしただろう」
「そうですね……お祝いの言葉にも何か含みのある方が多そうでしたから。でも、みなさんからリチャードや父の話を聞けたことはうれしかったです」
 あのときは嫌な顔ひとつ見せることなく応対していたものの、やはり思うところはあったのだ。しかし後半のうれしかったという件についてはよくわからず、小首を傾げながら腕を組む。
「話なんてどれもたいしたものじゃなかったと思うが」
「おふたりがとっても仲良しだってことはわかりました」
「……あくまで友人としてだからな?」
「もちろん承知しています」
 そう応じてシャーロットはくすくすと笑い出した。
 どうやら例の男色疑惑が再燃したわけではないらしい。ほっと安堵しつつ、いまだに面白がっている彼女に恨めしげな視線を向ける。だが、目が合うと思わずというかつられるように苦笑してしまった。
「そろそろ注文を決めようか。喉も渇いたし」
「はい」
 ようやくシャーロットも自分のメニューに手を伸ばした。わくわくとした様子だったのに、中を見るなり驚いたように大きく目をぱちくりとさせる。
「紅茶だけでこんなにたくさん種類があるんですね」
「オーナーが好きでな。紅茶にはこだわりがあるらしい」
「父がこの喫茶店に来ていた理由がよくわかりました」
「だろ?」
 その言葉に彼女はくすりと笑った。
「ですがわたしは父と違って詳しくありませんし、どう選んだらいいのか……」
 メニューには品種と産地とフレーバーが記されているのだが、知識がなければわからないだろう。リチャードも昔はわからなかった。だがここで紅茶を楽しむうちにわかるようになってきたのだ。
「どういうものが好きだとか嫌いだとかあるか?」
「そうですね……スパイシーなものはすこし苦手です」
「ああ、あれは好みが分かれるよな」
 軽く笑いながら手元のメニューに目を落とす。
 アーサーの影響で彼女もいろいろな紅茶を飲んでいるようだが、すべて自宅だろう。それならばこの店で飲むからこその価値があるものを勧めたい。たとえばオーナーが丹念に淹れるからこそ格段においしくなるもの、淹れるのに一手間がかかり自宅ではなかなか難しいもの、もしくは——。
「これなんかどうだ?」
 ふと口元を上げ、手を伸ばして彼女のメニューのひとつを指さす。
 それはシャーロットだから勧める意味があるもの——この店に初めてアーサーを連れてきたときに勧めた、そして彼がたいそう気に入って絶賛したあの紅茶、ベルガモットのフレーバードティーだった。


INDEX:伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい


番外編 伯爵家の次期当主はすこしだけ恩人の恋心に報いたい

「おまえ、来週末から里帰りするんだってな」
 文官のアーサー・グレイが王宮にある事務室で書類仕事をこなしていると、騎士団所属のリチャード・ウィンザーがいつものようにふらりとやって来て、締まりのない笑顔でそんなことを言う。
 こう見えて彼は公爵家の嫡男である。おそらくいずれ爵位を継ぐのだろうが、にもかかわらず騎士という危険な職業に就き、二十代後半になるのにいまだに結婚もせず自由にしているのだ。
 そんな彼に思うところはありつつも嫌いになれない。アーサーにとってはパブリックスクール時代の同級生であり、誘拐された娘を救出してくれた恩人でもあり、いまは友人とも呼べる間柄だ。
 ただ——彼のほうは、どうやら友情以上の感情を持っているらしいのだ。
 あまりにも態度がわかりやすくて周囲はだいたい察しているのだが、それでも本人は何も言おうとしないので、アーサーも知らないふりをしてあくまで友人として接しようと決めている。
「ええ、二週間ほど帰ってきます」
「俺もついていっていいか?」
「……前回もお断りしたはずですが」
「まだダメなのか?」
「ええ」
 シャーロットに誘拐事件のことを思い出させるわけにはいかない。あれから一年近くになるのでそろそろと思ったのかもしれないが、アーサーとしては危険性のある物事はすべて排除しておきたいのだ。
 リチャードは落胆した様子を見せながらも、すぐに気を取り直す。
「じゃあ、里帰りのまえにちょっと時間をくれないか? おまえを連れて行きたいところがあるんだ。おかしなところじゃないから心配しなくていい」
「……わかりました」
 どこへ連れて行くつもりなのかは気になるが、彼の口ぶりからすると秘密にしておきたいのだろう。その意思を尊重して聞き出すことなく承諾の返事をする。それができる程度には彼のことを信用していた。

 次の休日、迎えに来たリチャードに連れられて徒歩で街に向かう。
 どこへ連れて行かれるのかはまだわからないものの、店とだけは聞いている。貴族や富裕層向けの店が建ち並ぶエリアに入っていき、しばらくすると彼が前方を示しながら笑顔で振り向いた。
「あの店だ。先月できたばかりの喫茶店だから、おまえはまだ知らないだろう? 紅茶にこだわってるらしくて、めずらしい茶葉がたくさんあるし、淹れ方にも妥協がなくて美味いんだ」
 紅茶が好きなアーサーに喜んでもらおうと思ったのだろう。その健気さが、不覚ではあるがすこしかわいいと感じてしまった。もちろん表情にも態度にもいっさい出さなかったけれど。
 
 その喫茶店は、一見、店舗というより邸宅のようだった。
 看板すら出ておらず言われなければ喫茶店と気付けないだろう。中もまるで談話室のようで、暖色の灯りのなかでゆったりと落ち着けるしつらえになっている。アーサーたちは奥のほうに案内された。
「お伺いしていたとおりでよろしいですか?」
 執事姿の男性店員がそう尋ねると、深く椅子に腰掛けたリチャードはよろしく頼むと応じ、その店員が下がったところで正面のアーサーに向きなおる。わかりやすく得意げな顔をして。
「俺のおすすめを出してくれるよう頼んであるんだ。きっとおまえも気に入ると思う」
「それは楽しみですね」
 彼が強引なのはいまに始まったことではない。
 アーサーとしてはメニューを見てみたかった気持ちもあるが、またいずれ来ればいいだろう。いまは彼がそこまでして勧めるものに純粋に興味を持っていた。

「お待たせしました」
 仕事や同僚のことなどについて閑談していると、執事姿の男性店員が紅茶と焼き菓子を持ってきた。流れるような美しい所作でローテーブルに並べていき、一礼して下がる。
「まずは紅茶を飲んでくれ」
「……いただきます」
 期待をこめた目でリチャードが見つめている。アーサーは落ち着かない気持ちになりながらも、ティーカップを手に取った。
 これは——。
 ふわりと鼻をくすぐるさわやかな香りにハッとした。ティーカップに顔を近づけてあらためてその香りを確認し、口をつける。
「……ベルガモットですね」
「さすがだな」
 正解だったようで、リチャードがそう応じてニッと口元を上げる。
 最近、花の香りをつけたフレーバードティーが流行っているが、ベルガモットの香りは聞いたことがなかった。自国で栽培していないこともあって高価なのだ。それを紅茶に使うだなんて贅沢なことをするものだと驚く。だが——。
「あなたが勧めるだけのことはありますね。紅茶とうまく調和した上品でナチュラルな香り、あまり癖がなく紅茶のコクを感じられる味。これほど上質のフレーバードティーは初めてです」
「だろう?」
 彼はうれしそうにパッと顔をかがやかせて、前のめりになる。
「東方の小国で最近作られるようになったものでさ。ここのオーナーはもともと貿易関係の仕事をしていて、その伝手で輸入しているらしくて。この国ではいまのところここでしか扱っていないんだ」
 そう語ると、彼自身もようやく自分の紅茶に口をつけて、あらためて満足そうな笑みを浮かべた。

「そういえば、シャーロットはもう学校へ行く年齢じゃないのか?」
 のんびりと紅茶を楽しみながら閑談をつづけていたところ、里帰りの話題になり、その流れで思い出したようにリチャードがそう切り出した。アーサーはそっとティーカップを置いて答える。
「学校には行かせていません」
「だろうな。でも家庭教師はつけてるんだろう?」
「ええ」
 もともとは王都の学校に通わせるつもりでいたが、誘拐事件に遭ったことにより心配で外に出せなくなったのだ。学校を楽しみにしていた娘には申し訳なく思うが、身の安全には代えられない。
 とはいえ家庭教師には学校教育にない利点もある。子供と相性のいい優秀な家庭教師を選定できるし、理解度に応じて授業を進めていけるし、カリキュラムを自由に設定することもできるのだ。
「学校教育以上の教養を身につけさせるつもりです」
「それを聞いて安心したよ」
 ティーカップを置いてリチャードはふっと笑う。
「一般教養だけでなく、領主の仕事についてや、政治的なこと、主要な貴族の情報なんかも教えておくといい。あとダンスもひととおり踊れるようにしておけよ」
「そうですね……」
 やけに具体的だが、おそらく貴族に嫁ぐことを想定しての助言だろう。シャーロットのためを思えば確かに必要かもしれない。ただ——。
「ん、どうした?」
 微妙な顔をしてうつむいていると、リチャードが不思議そうに覗き込んできた。思わずアーサーは重い溜息をつく。
「あなたに男親の心情はわからないでしょうね」
「まさか嫁に出さないとか言うんじゃないだろうな」
「いえ……」
 さすがにそこまでのことをするのはシャーロットのためにならない。いつまでも娘として当家にいてほしい気持ちはあるが、適切な頃合いに大切にしてくれるところへ嫁がせるべきだろう。
「ただ、成人するまでは何も考えたくありません」
 そう答えると、ハハハッとおかしそうにリチャードが声を上げて笑った。
 あなた自身の結婚こそ早く考えるべきではありませんか——すこしムッとしてそう言いかけたものの、すんでのところで飲み込む。アーサーがそれを言うのはさすがに残酷だろうと思った。

 紅茶が尽きたころ、リチャードがふいに手を上げて執事姿の男性店員を呼んだ。何かを頼んだようで、いったん奥に下がった店員がすぐに紙袋を携えて戻ってきた。
「これ、おまえに」
「えっ」
 リチャードはその紙袋を受け取ったかと思うと、アーサーに差し出した。
 いささか困惑しながら紙袋の中を覗いてみたところ、茶葉の詰まった小瓶が三つ入っていた。かすかに鼻をくすぐる香りから察するに、これもベルガモットのフレーバードティーなのだろう。
「オーナーに無理を言って分けてもらったんだ」
「あの……このような貴重なものをいただく理由がないのですが」
「おまえ、あいかわらず堅いよなぁ。水くさいこと言うなよ」
 リチャードが眉をひそめて言う。
 だが、彼の恋心に応じる気はないのに、素知らぬ顔で高価なものをもらうのはやはり抵抗があった。だからといってせっかく用意してくれたものを断るのも悪い気がして、目を伏せて逡巡する。
「……わかりました。これはありがたくいただくことにします。領地に帰ったら御礼をかねて何かおみやげを買ってきましょう」
「ああ」
 うれしそうに彼の顔がほころんだ。こんな無防備な笑みを他のひとに向けたところは見たことがない。何ともいえない複雑な気持ちになりながら曖昧に目をそらす。
「あ、シャーロットの写真も頼むな」
「またですか?」
「俺にとっては特別な子なんだよ」
 自分が救出した子ということで本当に特別に思っているのかもしれないし、アーサーの気を惹くためにそう言っているだけかもしれないが——。
「わかりました」
 いずれにしても、恩人である彼が望むのなら写真を渡すことに異存はなかった。

 喫茶店を出ると、西の空はすでにやわらかい茜色に染まっていた。頬をなでる空気はすこし冷たい。このところ朝晩は日に日に涼しくなっており、否応なく季節の移り変わりを感じさせられた。
「けっこう冷えるな」
「ええ」
 二人はとりとめのない話をしながら歩き出す。
 やがて住まいであるタウンハウスの前まで来ると、アーサーは足を止め、あらためて隣のリチャードに向きなおり茶葉の礼を述べた。彼はたいしたことではないかのように軽く笑って応じる。
「おまえが里帰りから戻ってきたら、またゆっくり話そう」
「はい」
 じゃあなと片手を上げながら身を翻した彼に、アーサーは一礼する。
 その後ろ姿はいつもよりこころなしかゆっくりと遠ざかっていく。まるで後ろ髪を引かれているかのように。アーサーは目を細め、茶葉の入った紙袋を抱えたままじっといつまでも見送った。


INDEX:伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい


番外編 騎士志望の少年はいとこの少女を幸せにしたい

「シャーロット!!!」
 アレックス・グレイは庭の隅にぽつんと立つ大樹に駆け寄ると、大きく手を振った。
 見上げた先には、立派な枝に腰掛けるシャーロット・グレイがいる。彼女はひらひらと手を振り返すと、軽やかな身のこなしで幹を伝って芝生に降り立ち、ふわりと愛らしい笑顔を見せた。
「久しぶりね」
「うん、元気そうでよかった」
「しばらくこっちにいるの?」
「二週間くらいかな」
 アレックスはエヘヘと笑い、半年ぶりの再会となった彼女にあらためて目を向ける。以前に会ったときはすこし見上げるような感じだったのに、いつのまにか同じくらいの高さになっていた。

 アレックスは、昔からずっとシャーロットのことが好きだった。
 二歳上のいとこである彼女とは、まだ物心もつかないくらい幼いころから交流があり、だいたい週に一度は弟とともに家に遊びに行っていた。そんな中でいつのまにか大好きになっていたのだ。
 ただ、いまは王都にある全寮制のパブリックスクールに入っているため、長期休暇のときしか会えない。学校生活も寮生活も楽しくて充実した日々を送っているが、そのことだけが残念だった。
 だから故郷に帰ったときには毎日のように遊びに行っている。母親には若干あきれられている気もするが、止められることはない。箱入り娘のシャーロットにとっては貴重な遊び相手なのだから。

「ん……やっぱりここ気持ちいいね」
 アレックスとシャーロットは並んで大樹の下に寝転がっていた。
 そよ風が吹き、木の葉が揺れ、その合間から雲ひとつない青空が見え隠れする。それにあわせて木陰も揺れる。空気も澄んでいて心地いい。アレックスは仰向けのままゆっくりと深呼吸をした。
 隣に目を向けると、シャーロットも心地よさそうに緑色の瞳を細めていた。やわらかなストロベリーブロンドは芝生にふわりと広がり、アレックスの手にもほんのすこしだけ触れている。
 ピピピピ——。
 ふいに小鳥のさえずりが聞こえた。
 顔を上げると、二羽の小鳥が円を描くように飛んできて枝に止まった。さきほどシャーロットが座っていたところだ。軽く枝をつついていたかと思うと一羽が飛び立ち、それをもう一羽が追っていく。
「ねえ、シャーロット」
「なぁに?」
 気の抜けた返事をして、彼女はそよ風に誘われるように緑色の瞳を閉じた。その横顔を見つめたまま、アレックスは一呼吸おいてそっと話をつづける。
「いつもこの木に登って何を見てるの?」
 それは一年ほど前から気になっていたことだった。
 彼女はひとりのときによくこの木に登って遠くを見ている。以前はただ見晴らしのいい景色を眺めているだけかと思っていたが、ときどき何かせつなげな顔をしていることに気付いたのだ。
 もっとも彼女にはそのあたりの自覚はなかったのかもしれない。不思議そうにきょとんとして振り向く。アレックスと目が合うとふっとやわらかい表情で微笑み、あらためて大樹を見やりながら言う。
「登ってみたらわかるわ」
「僕が苦手なの知ってるよね?」
「ふふっ」
 アレックスはじとりと恨めしげに横目で睨み、口をとがらせる。
 彼女は幼いころからドレスを着たままするすると登っていた。一方で自分は高いところが苦手なので登ろうとさえしなかった。彼女に誘われるたび、ひどく情けなく思いながらも無理だと断っていたのだ。
 けれど、すこしまえに一念発起してひそかに練習を始めていた。いつか彼女と一緒に木に登りたくて、そして見直してもらいたくて。ただ、これほど大きな木にはまだ一度も挑戦したことがない——。
「どうしたの?」
 アレックスが無言のまま立ち上がって大樹を見上げると、彼女はつられるように体を起こしてそう尋ねた。しかしアレックスは目標の場所を見据えたまま振り返らない。
「登ってみる」
「えっ……大丈夫なの?」
「たぶん」
 そう答えると、大きな幹に手をかけて登りはじめる。
 怖くないわけではないが、それよりも彼女のことを知りたいという気持ちが上回った。どこに手をかけようか足をかけようかと考えながら上を目指していく。
「気をつけてね」
 ハラハラと心配そうな彼女の声。
 しかし登ることに必死になっているため返事をする余裕はない。やがてどうにか彼女が座っていたところまでたどり着くと、ほっと安堵の息をついて腰掛ける。
「ひっ」
 何気なく下を見たら、その高さに血の気が引いてあわてて顔を上げた。
 ただ真下にさえ目を向けなければわりと大丈夫そうで、ぐるりと遠くの景色を確認していく。そこは高台ということもあってとても見晴らしがよかった。
「…………」
 比較的近いところには木々や草などの緑が多く、その向こうには街、集落、畑などがあり、さらに遠くには山々、そしてかすかながら海も見える。だが、彼女が何を見ていたのかまでは——。
「わかったかしら」
「へぁっ?!」
 すぐ隣から悪戯めいた声が聞こえてびっくりする。
 振り向くと、声の主であるシャーロットがそこにいた。アレックスが景色に気を取られているあいだに登ってきたようだ。彼女はおかしそうにくすりと笑って腰を下ろすと、遠くに目を向ける。
「わたしね……カーディフの街を見ていたの」
「あっ」
 聞いた瞬間、せつなげな顔をしていた理由を悟った。
 彼女は幼いころから敷地の外に出ることを許されていなかった。父親の過保護ゆえだ。だからといって不満を口にするようなことはなかったが、お芝居を見たり、買い物をしたり、食べ歩いたり、そんなふうに街を楽しんでみたいと思っていても不思議はない。
「ふたりだけの秘密ね」
 彼女は淡く微笑み、そのまま唇のまえで人差し指を立ててみせる。
 その表情と仕草にドキリとして、思わずアレックスは流されるようにこくりと頷いてしまった。しかし冷静に考えると、それはつまり両親でさえ彼女の望みを知らないということで。
「おじさんとおばさんには言わないの?」
 アーサー伯父さんなら話せばわかってくれるのではないかと思った。娘のシャーロットにはとても甘いのだ。しかしながら彼女は話すことも頼むことも望んでいないらしい。
「大事に守ってくれているのにワガママなんて言えないわ」
「でも、それじゃあずっとこのまま変わらないよ?」
「そうね……だけど大好きな二人を困らせたくないから」
 そんなことを言いながら困ったように笑う。
 それを見てアレックスはひどく胸が締め付けられた。わがままのひとつくらい言えばいいのにと思ったが、両親を困らせたくないという彼女の気持ちは尊重したい。それでもどうにかして彼女の望みを叶えられないだろうか——。
「アレックス?」
 こころなしか怪訝そうに呼びかけられたそのとき、心が決まった。
 ごく自然に外出が許されるようになるにはこれしかない。ゆっくりと呼吸をしてから顔を上げると、鮮やかなペリドットの瞳をまっすぐに見つめて訴える。
「シャーロット、大人になったら僕と結婚しよう」
「……えっ?」
「僕、学校を卒業したら騎士になろうと思ってるんだ。だから一緒に王都で暮らそう。街でも、海でも、どこでも行きたいところに連れて行ってあげるよ。七年くらい待たせることになるけど」
 彼女のために自分を犠牲にするわけではない。もともと彼女との結婚をひそかに夢見ていたのだ。こんな形でのプロポーズになったことは残念だが、一緒に暮らせたらと想像するだけでウキウキする。だが——。
「ごめんね……わたしの結婚相手はお父さまが決めるの。縁を結ぶことで利益になるようなひとを選ぶと思うわ。貴族の結婚ってそういうものだから」
「…………」
 彼女が申し訳なさそうに微笑を浮かべるのを見て、アレックスは呆然とする。
 忘れていたが、言われてみればシャーロットが生まれたのは由緒ある伯爵家だ。貴族の結婚は親が決めるのが普通だとか何とか、パブリックスクールの同級生が話しているのを聞いたことはある。
「で、でも、おじさんならシャーロットの幸せを一番に考えるんじゃないかな」
「どうかしら……まあ、どちらにしてもアレックスを相手に選ぶことはないわね」
「え、なんで?」
 わけがわからず聞き返すが、彼女は前を向いたまま何でもないかのように答える。
「アレックスは貴族じゃないでしょう?」
「貴族じゃないとダメなの?」
「貴族の結婚ってそういうものだから」
 そういう決まりならアレックスにはどうしようもない。
 一瞬、駆け落ちでもすればいいのではないかと思ったが、それでは両親を困らせてしまうので本末転倒である。他にどうすればいいのかはまったく思い浮かばない。
「ありがとう、気にかけてくれてうれしかった」
「うん……」
 結局、ただ気にかけることしかできなかった。
 自分の不甲斐なさにうなだれるが、そのときふと気付く。そもそも彼女は結婚さえすれば外に出られるのではないか。相手がアレックスでなくても。まともなひとなら妻を閉じ込めておこうとは思わないだろう。
 バカだな——。
 自分のしたことが一気に恥ずかしくなる。
 ただ、いつか彼女の望みが叶うのであればよかったと思う。理解あるひとと結婚して、街にも遊びに行けて、ずっと幸せに暮らしてくれたら言うことはない。できれば自分が幸せにしたかったけれど。
「ね、カーディフの街のことを聞かせて?」
 ふいに彼女が仕切りなおすように声をはずませて、覗き込んでくる。
 その雰囲気につられてアレックスも表情が緩んでしまった。こくりと頷き、尋ねられるまま街で見聞きしたことをあれこれと話していく。胸を苛んでいたせつなさはそっと奥にしまいこんで。


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エピローグ 〜 公爵家の幼妻は旦那様と仲良くしたい

 宴が一段落すると、シャーロットは夫のリチャードとともに引き上げた。
 すぐに侍女の手を借りながら湯浴みをして寝衣に着替える。公爵家が用意したそれは膝下丈のゆるりとしたドレスで、薄地のシルクながらも身頃の透け感はそれほどなく、繊細なレースやフリルがあしらわれた上品で可愛らしいものだ。
「若奥様、緊張なさってますか?」
「平気よ」
 気遣わしげな侍女にニッコリと微笑んでみせる。
 さすがにこういう状況なのですこし緊張しているものの、落ち着いてはいると思う。ただ若奥様と呼ばれることにはまだ慣れておらず、何となくむず痒いような気持ちになってしまった。
「行ってくるわ」
 そう言い置き、侍女に見送られつつ寝室へつづく扉を開ける。
 明るい——。
 てっきり薄暗くなっているものとばかり思っていたが、普通に灯りがついていた。
 寝台にはリチャードがひとりで腰掛けている。手に持っている何か小さなものを見ていたようだが、シャーロットが扉を開けるとすぐに振り向き、ふっと目を細めて笑った。
「すみません、お待たせしましたか?」
「いや」
 彼は自分の隣をぽんぽんと叩いて、おいでと言う。
 シャーロットは扉を閉め、素直に示されたところまで歩いていくと腰を下ろした。そのとき彼の手にしているものがチラリと視界に入った。どうやら紙片の束のようだ。
「もしかしてお仕事でした?」
「これは違うよ」
 そう笑いまじりに答えながら手渡され、瞬間、小さく息を飲む。
 そこには幼いころの自分自身の顔がうつっていた。おそらく初めて写真を撮ったときのものだろう。まだ五歳くらいで、何もわからないまま写真技師に撮影されたことを、おぼろげながら覚えている。
 あわてて一枚ずつ確認するが、他もすべてシャーロットを被写体にした写真だった。幼少期から最近まで成長を追うようにそろっている。ただ、染みがついていたり波打っていたりと傷んでいるものが多い。
「ずっと大切にしてた俺の宝物」
 彼はシャーロットの手からまとめてそれを抜き取ると、サイドテーブルに置いた。
 どうしてあなたが——ずっとというくらいだから、婚約してから譲り受けたわけではないのだろう。そのときどきで手に入れていたのかもしれない。いずれにしても入手先として考えられるのはひとつだ。
「父から?」
「そう、あの誘拐事件のあとアーサーに頼んで写真をもらってたんだ。そのためにつきまとってたから懸想してるとか誤解されたんだろうが、事実無根だからな。俺が好きなのは今も昔もシャーロット、君だけだ」
 躊躇いもなくまっすぐに目を見つめながらそう言われ、鼓動が跳ねる。しかしながら素直にすべてを信じることはできなかった。
「本当に、十年前から……?」
「初めて会った誘拐事件のときに好きになったんだ。君と確実に結婚できるように、騎士団長にまでなって陛下の口添えをいただいた」
 とても嘘を言っているようには見えないが、事件当時のシャーロットはまだほんの五歳である。そんな小さな子供を異性として好きになったうえ、十年もかけて結婚を画策するだなんて——。
「悪いな、結婚をなかったことにはしてやれない」
 シャーロットが微妙な面持ちのまま考えをめぐらせていると、彼は自嘲まじりにそう言い添えた。あわててシャーロットは弾かれたように「いえ」と声を上げた。
「わたしは結婚をやめたいだなんて思っていません。ただ、リチャード様が失望してしまわないかと心配していたのです。いまはもう、あなたが好きになった五歳の女の子ではありませんし……」
「いや、別に俺は幼女が好きってわけじゃないからな?!」
 必死に言い訳する彼に、シャーロットはただ曖昧な笑みを浮かべて応じた。
 この十年のあいだに成長して変わったところは多々ある。そのことで失望されるかもしれないという不安は消えないが、それを追及する気はなかった。なのに——彼はふと何かを察したように真面目な顔になり、言葉を継ぐ。
「君のことはあのときからずっと写真をもらって見てきたし、話も聞いてきた。会ってはいなかったがある程度はわかっていたつもりだ。でも実際に会った君はそんなものをはるかに超えていたよ……ロッテ」
 甘く愛おしむような声であのときの名前を呼ばれて、頬が熱くなる。
 彼の話から、少なくとも十年前の幻影を追っているわけではないとわかった。きっとこれからも目の前のシャーロットと向き合ってくれる。そう思うと、ようやくすこし安心できた。
「そういえば、あのとき最初からわたしだと気付いていたのですよね?」
「ああ……ひとりで街にいる君を見かけて本当に驚いたよ。自分の素性を明かさなかったのは、君に結婚を強いた公爵家の人間としてではなく、ひとりの男として見てほしかったからかもしれない」
 きまり悪そうにしながらも、彼は聞きたかったことまで先回りして答えてくれた。
 あのときシャーロットが街にいることは誰も知らなかったはずなので、出会ったのは本当に偶然だろうし、素性を明かさなかったのも明確な意図はなかったのかもしれない。それでも——。
「ずるいです」
 あえて口をとがらせて言う。
「そのせいでわたしがどんな気持ちでいたかわかりますか? とうに心を決めていたはずなのに、結婚するのがつらくなってしまって……こんなことなら出会いたくなかったとさえ思いました」
「それって……」
「リック様を好きになってしまったんです」
 その告白に、彼は想像もしなかったとばかりに大きく目を見開いた。たった半日しか一緒に過ごしていないのだから当然かもしれない。それでもシャーロットはにっこりと微笑んで言葉を継ぐ。
「だから、責任をとってくださいね」
「責任……?」
 そう聞き返す彼に、やわらかに腕を伸ばして抱きついた。
 瞬間、薄布越しに伝わってきたのは無駄なく鍛えられた体躯、そして体温。こんなにも男性に密着したのは初めてのことで、心臓が壊れそうなくらいドキドキしながらも、そっと口を開いて言う。
「ずっと、末永く仲良くしてほしいの」
「……約束する」
 静かながらも芯のある声が返ってきた。
 ほっとした瞬間、彼にやさしく両肩を押されて二人の体が離れた。戸惑いながら顔を上げると、怖いくらいまっすぐな目がそこにあって息を飲む。まるでとらわれたかのように絡んだ視線がほどけない——。
「後悔はさせない」
 ふいにリチャードが宣言した。
 そしてゆっくりとシャーロットの頬に手を添えながら、顔を近づけてくる。その表情は婚儀のときよりずっと真剣で——思わずシャーロットはくすりと笑い、ほどなくして紫の双眸に吸い込まれるように目を閉じた。


INDEX:伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい


第5話 伯爵家の堅物当主は元同級生から離れられない

 アーサー・グレイは、同級生のリチャード・ウィンザーが嫌いだった。

 彼はウィンザー公爵家の嫡男である。
 公爵家というのは王家に連なる血筋で、他の貴族とはいささか性質や役割が異なっている。国が安泰であるためには、公爵家が安泰であることが重要になってくるのだ。それゆえに責任が重い。
 なのに彼はその責任を軽視している。
 公爵家の人間ともなれば公の場に出ることも多いのだが、彼はごくたまにしか姿を現さない。未成年のうちだけならまだしも十六歳で成人になってもだ。それはすべて彼個人のわがままだという。
 学業においても真摯に取り組んでいる姿勢が見えない。自主的に勉強している様子はなく、授業中でもぼんやりと窓の外を眺めていることが多い。ときには目をつむって微睡んでいることさえある。
「いまは自習の時間だ。居眠りをしていいわけじゃない」
「んだよ……誰にも迷惑かけてないんだから別にいいだろう」
「いいかげん公爵家の後継者たる自覚を持ったらどうだ」
「おまえ、ほんといつもそればっかりだな」
 そんなやりとりは日常茶飯事だった。
 課題の提出もいつも期限ギリギリだ。催促する役目はたいていアーサーに押しつけられる。誰も未来の公爵の不興を買いたくはないのだろう。先生も級友もみんな及び腰なのが腹立たしい。
「君はどうして期限ギリギリにしか提出しないんだ」
「期限には間に合ってるんだからいいだろう」
「催促されなければ提出しないつもりじゃないのか?」
「まさか」
 アーサーが苦言を呈すのは、彼を公爵たるにふさわしい人物にしなければと思ったからだ。級友として、貴族として、国民として——頼まれもしないのに勝手に使命感にかられていたのである。
 もっとも成績は彼のほうが良かった。いつも学年一位か二位で、アーサーはだいたい五位前後で一度も勝てたことがない。武術と剣術も彼が群を抜いて優秀である。ついでにいえば見目もいい。
 そんな恵まれたものを持っているにもかかわらず、何にも関心を示さず、いつも醒めた目をしていることがひどくもどかしかった。
 決して孤立しているわけではない。多くのひとに囲まれて笑みを浮かべてはいるが、誰にも心を許していないように見えるのだ。ときどき避難するように穴場の木陰でひとり寝転んでいた。

 八年の学生生活を経て、雲ひとつない快晴の日に卒業を迎えた。
 首席はリチャードである。これが不正や忖度でなく実力によるものだということは、同級生であればみんなわかっていただろう。本人は望んでいなかったようで面倒そうにしていたけれど。
 それでも卒業生総代の辞は立派なものだった。内容もだが、それを堂々と述べる彼自身の姿に惹きつけられてしまった。さすが公爵家に生まれた人間だけのことはあると、感心せざるを得ない。
 式が終わると、彼は中庭で大勢のひとに囲まれていた。
 それを横目で見ながら通りすぎようとしたところ、彼がこちらに気付き、すぐにまわりのひとたちに断ってひとり駆け寄ってきた。めずらしく屈託のない表情をしているように見える。
「アーサー、いろいろ世話になったな」
「自覚があったのか」
 急に殊勝なことを言われて軽く驚きながらそう返すと、彼はおかしそうに笑った。
 つられてアーサーもかすかに笑みを浮かべた。これからはもうあまり顔を合わせることもなくなるし、苦言を呈することもなくなる。そう思うと、すこしだけ感傷的な気持ちになった。

 卒業後、アーサーは領地に戻った。
 領地経営をみっちり叩き込みたいという父親の意向である。アーサーは後継者として手伝いながら学んでいった。そしてほどよい頃合いに親の決めた相手と結婚し、三人の子供にも恵まれた。
 妻のアリシアとは政略結婚だが、相性が合っていたようであたたかい家庭を築けていると思う。夫婦として互いに尊重し合いながら子供たちを慈しむ日々に、かつてない幸せを感じていた。

「それでは王都に?」
 文官として働かないかと王宮から打診があり、それを承諾した旨を告げると、妻のアリシアは驚いたようにそう聞いてきた。アーサーは静かに頷く。
「先方が急いでいるので来週には行かなければならない。それで、できれば君と子供たちも一緒に連れて行きたいと考えている。まだ子供たちが幼いし、君には少なからず負担をかけることになると思うが……」
「もちろん一緒に行きますわ」
 迷う素振りもなく彼女はにこやかに即答した。
 家族一緒に暮らしたいという気持ちは彼女も同じなのだろう。それでも急だったにもかかわらず笑顔で承諾してくれたことはありがたく、頭の下がる思いだった。

 翌週から、家族ともども王都のタウンハウスで暮らし始めた。
 急に環境が変わって子供たちがどうなるかと心配していたが、すぐに馴染んだ。特に第一子のシャーロットは街が好きなようで、使用人の買い出しにもしょっちゅうついていくという。
 アーサーは予定どおり王宮で文官として勤めている。しばらく人手不足だったので仕事がたまっていたらしく、かなり忙しくはあったが、それでも夜遅くまで働かされるようなことはなかった。

「え、アーサー?!」
 ある日、文官としての仕事で騎士団本部に足を運んだところ、ふと驚いたように名前を呼ばれた。ありふれた名前なので自分のことなのか不明であるが、反射的に声のほうに振り向く。
 そこには騎士服姿のリチャードがいた。
 思わず目を見開くが、そういえば彼は卒業したら騎士団に入るという話だった。公爵家の嫡男としては異例のことで、当時はかなり話題になったはずだ。いまのいままで忘れていたけれど。
「ウィンザー侯爵、お久しぶりです」
「いや、リチャードでいいよ」
「そういうわけにはまいりません」
「相変わらずだな」
 リチャードはそう言って苦笑する。
 現在、彼は従属爵位であるウィンザー侯爵を儀礼称号として名乗っている。学生のときは階級など関係なく対等に話すことになっていたが、社会人となったいまはそういうわけにもいかない。
「おまえ領地に帰ったって聞いたけど」
「はい、ですが王宮に勤めることになりまして」
「なるほどな」
 騎士団にも王宮の人手不足の影響があったという話なので、彼もそのあたりのことは聞き及んでいたのだろう。
 流れで妻子のことも尋ねられた。隠すことでもないので聞かれるまま答えるが、こういう話を穏やかに彼としていることが何か不思議だった。それだけ二人とも大人になったということかもしれない。
「あなたは……」
「ん、ああ、俺は先日婚約したところ」
「それはおめでとうございます」
 彼にも聞いてみたところ、思いがけない答えが返ってきて表情が緩んだ。
 公爵家は何より血筋を絶やさないことが求められている。なのにその嫡男である彼が結婚を忌避しているようだったので、学生時代は勝手に気を揉んでいたのだ。あとは彼個人の幸せにもつながるよう願うばかりである。

「すみません、失礼ですがグレイ卿でしょうか?」
 会話が途切れたところで、事務方と思われる男性がアーサーに声をかけてきた。自分を知っている人間がそういないはずのところで名指しされ、思わず怪訝な顔になる。
「そうですが……」
「さきほど近所の子供がこれを持ってきまして。どうやら見知らぬ男から騎士団本部に届けるよう頼まれたらしいのですが」
 差し出された封筒には『グレイ卿』と宛名が記してあった。
 おそらく騎士団本部に入るところを見ていたのだろうが、それにしても不可解だ。封筒を裏返してみても差出人の名前は見当たらないし、封蝋の紋章らしきものにも見覚えはない。けれど——。
「アーサー、いますぐ開けろ!」
「えっ、どういうことでしょうか?」
「いいから開けろ!!!」
 リチャードが血相を変える。
 戸惑いながらもアーサーは言われるまま封蝋を破り、二つ折りの手紙らしきものを取り出して開くと、冒頭の文章に目を落とす。それはいわゆる脅迫状だった。娘のシャーロットを誘拐したから身代金を払えという——。
「貸せ!」
 血の気が引いたまま呆然と立ちつくしていると、リチャードがひったくるように脅迫状一式を奪い取った。ひととおり目を通したのち、怖いくらい真剣な顔でアーサーを見据えて問いかける。
「アーサー、おまえ身代金は用意できそうか?」
「領地に帰れば……ですが、三日で用意できるかは……」
「だったら俺が個人的に貸してやる」
「えっ」
 当然ながら気軽に借りられるような金額ではない。ごく親しい相手であっても躊躇してしまうだろう。まして久方ぶりに再会したばかりの元同級生という、交流さえなかった相手になんて。
「いえ……それ、は、さすがに……」
「他に当てはあるのか?」
 そう言われて考えてみるが、それだけの金額をすぐに用意できるひとなどそういないだろうし、そもそも王都に来て間もないので交流のある知人からしてあまりいない。だとしたら——。
「お言葉に甘えさせていただきます」
 気は引けるが、娘の命がかかっているのだからなりふり構っていられない。
「おまえは家に帰って状況を確かめてこい」
「わかりました」
 そう答えてすぐに自宅に向かう。
 リチャードに命じられて事務方の男性もついてきた。名はレオという。冷静ではいられないかもしれないので、事情を知っている人間がいてくれるだけでありがたい。
「あなた! シャーロットがいなくなったみたいなの!」
 邸宅に入るなり、妻のアリシアが顔面蒼白でそう訴えてきた。
 やはりシャーロットは誘拐されていたようだ。焦燥と恐怖と不安と怒りでどうにかなりそうだが、自分がいまここで取り乱すわけにはいかない。
「話を聞かせてくれ」
「侍女のマヤがシャーロットを連れて街へ買い物に行ったんですけど、彼女ひとりが路地裏で頭を殴られて気絶していたらしくて……シャーロットの姿はあたりを探しても見当たらなかったみたいなの」
 おそらくそのときに誘拐されたのだろう。侍女を殴り倒してまでということは、最初からシャーロットを狙っていたとしか思えない。それもグレイ伯爵家の娘であることを知ったうえで。
「マヤはいまどこに?」
「病院です。さきほど執事が向かいました」
「わたしも話を聞いてこよう」
「お願いします」
 アリシアの双眸はひどく不安そうに揺らいでいた。そんな彼女に追い打ちをかけるのは気が咎めるが、黙っているわけにもいかない。アーサーは覚悟を決めると一呼吸してから切り出す。
「実は、シャーロットを誘拐したという脅迫状が届いている」
「えっ?」
「身代金の受け渡しは三日後と指定されているから、それまでは無事だろう。身代金は借りられることになったし、騎士団も動いてくれている……シャーロットは必ず無事に戻ってくる」
 最後は力強く断定した。
 アリシアはいまにも泣きそうに顔を歪ませたが、どうにかグッと唇を引きむすんでアーサーを見つめ返すと、気丈に頷く。こぼれそうなほどの涙をその目にたたえながら。

「もっ、申し訳ありません……取り返しのつかないことを……」
 病院に行くと、ちょうど侍女のマヤが目を覚ましたところだった。かなり出血したとのことで頭には白い包帯が巻かれている。最初はまだぼうっとしていて状況も理解できていないようだったが、こちらから説明すると記憶がよみがえってきたらしく、真っ青になって震え出した。
「謝罪よりもまずは話を聞かせてほしい。何か覚えていることはないか」
「はい……いきなり後ろから何かで頭を殴られたので、顔は見ておりません。ただ、倒れたときに船乗りのような靴が見えました。潮のにおいもかすかにしたような気がします」
 これが手がかりになればいいが——。
 何か思い出したら騎士団本部まで連絡するよう言い置くと、病室の隅に控えていた執事にマヤのことを頼み、同行していたレオとともに急いで騎士団本部へ向かった。

 騎士団本部では、誘拐事件の捜査会議が行われていた。
 リチャードも参加していたが、レオが会議の邪魔にならないよう静かに呼びに行ってくれた。すぐさま抜けてきた彼にさっそく侍女から聞いた話を伝えると、彼は納得したように頷く。
「やはり港だ」
「えっ?」
 思わず聞き返すと、すこし躊躇う様子を見せながらも教えてくれた。この一年のあいだに類似の誘拐事件が三件あったこと、今回の誘拐事件も含めて同じ組織の犯行と思われること、三件で得られた情報を総合して港に目星をつけていたことを。
「それで、過去三件の事件はどうなったのでしょう?」
「……最初の二件は身代金を払って子供は無事に戻ってきた。ただ、騎士団が知ったのは身代金の受け渡しが終わってからだ。最後の一件は期限までに身代金を用意できずに騎士団を頼ってきた。それで身代金を受け取りに来た男を捕らえたが、監禁場所を吐かせようとしたところ自害され……子供は遺体で発見された」
 アーサーは息を飲んだ。わかってはいたつもりだが、その危険があることをまざまざと思い知らされた。目の前が暗くなるのを感じてふらりとする。
「そ、れは……身代金さえ払えば、無事に戻ってくると……」
「身代金はいま用意させている。ただ、騎士団としては素直に身代金を払うだけというわけにはいかない。これ以上の犠牲者を出さないために組織を壊滅する必要がある。もちろん娘の身の安全は最優先に考えるが、状況によっては身代金の受け渡し前に作戦行動をとるかもしれない」
 リチャードがつらそうな顔をして現実を告げるが、すぐには受け止められない。
 これ以上の犠牲者を出さないためにというのは理解できるし、王国や王都を守る騎士団としてはそれが正しいのだろうが、親としてはすこしの危険も冒したくない。身代金を払えば無事に戻ってくるのであればそうしたい。けれどそれは自分たちのことしか考えていないということで——。
「シャーロットは必ず助ける」
 逡巡したまま承諾も反対もできずに奥歯を食いしめていると、彼はまっすぐにアーサーを見つめてそう断言した。

 アーサーはそのまま騎士団本部に留まることになった。
 とはいえ捜査会議には入れないので来客用の部屋で待つだけだ。たびたびレオが姿を見せてはこまごまと世話を焼いてくれたが、せっかく用意してくれた軽食はあまり喉を通らなかった。
 そのうちウィンザー家の執事が身代金となる金貨を届けてくれた。それが手元にあるだけで安心感が違う。これほどの大金をこんなにも早く用意してくれた彼らには、いくら感謝してもしきれない。
 夜になると出入りが激しくなり慌ただしい気配を感じた。気にはなるが、状況については聞いても答えられないとあらかじめ言われている。アーサーにはただ祈ることしかできなかった。
 そのまま一晩が過ぎる——。
 ずっと一睡もせず、胃がキリキリするのを感じながらソファに座っていた。用意してくれた毛布はきれいに折りたたまれたままだ。いつ何が起こるかもわからないのに眠れるわけがない。
「グレイ卿!」
 空が白み始めたころ、レオが慌ただしくバタンと扉を開けて飛び込んできた。ハッとはじかれたように立ち上がったアーサーに向かって、髪を乱したまま声を張り上げる。
「娘さんが救出されました! 無事だそうです!!!」

 いてもたってもいられず騎士団本部のまえで待つ。
 シャーロットは港から馬で連れ帰るところだという。手足を縄で縛られていたので若干の擦過傷はあるが、それ以外は何ともないらしい。けれど自分の目で確かめるまではとても安心できなかった。
 朝靄が消えるころ、数頭の馬がゆっくりとこちらに向かってくるのが見えた。どうやら白馬に乗っているのがリチャードのようだ。そして、彼のまえに乗せられている小さな子供が——。
「シャーロット!!!」
 到着するのを待っていられずに我を忘れて駆け出した。リチャードは白馬を止め、眠っているシャーロットを片腕に抱えて下りると、必死に両手を伸ばしたアーサーに横抱きにして渡す。
 瞬間、アーサーの視界がにじんだ。
 そのぬくもりで、重みで、ようやく娘が無事に生きて戻ってきたことを実感した。全身の力が抜けそうなほど安堵して膝から崩れ落ちる。それでも娘はしっかりと腕に抱いたまま離さない。
「ありがとうございます。本当になんとお礼を言ったらいいか……ああ……」
「俺は騎士として仕事をしただけだ」
 リチャードはあたりまえのようにさらりと受け流すと、じゃあなと軽く手を上げ、馬を引きながら仲間と騎士団本部のほうへ足を進める。その背中にアーサーは精一杯の気持ちをこめて頭を下げた。

 数日後、妻と子供たちは領地に帰した。
 今回の誘拐事件で王都に置いておくことが心配になったのだ。必ずしも王都だからというわけではないのだろうが、子供たちに起こりうる危険は可能なかぎり回避したい。妻も同じ気持ちだった。
 領地においても、グレイ家の敷地外に子供たちを出さないよう妻に頼んだ。過保護かもしれないが、大人と一緒にいても誘拐された事実があるのだから、そうでもしないと安心できなかった。
 ただ敷地はかなり広く、小規模ながらも山や川や森などの自然があるし、広場で乗馬もできるようになっているので、遊びには事欠かない。少なくともあまり窮屈な思いはしないですむはずだ。
 遊び相手には従兄弟、つまりアーサーの弟たちの子供を考えている。いまのところ男の子ばかりなのが難点だが。みんな遠くないところに住んでいるので、ときどき来てもらうことは可能だろう。
 そして、いつか外に出るときのために護身術を習わせるつもりだ。成長に合わせてすこしずつ——。

 翌々日、ひとりの男性がアーサーを尋ねてきた。
 彼は広大な領地を有するポートランド侯爵家の嫡男で、名をグレアムという。アーサーとは同年齢で、互いの領地が隣接しているということもあり、友人というほどではないがそれなりに交流はあった。
「それで、どういったご用件でしょうか」
「いますぐ金を借りたい」
 まさか裕福なポートランド家の人間からそんなことを頼まれるとは思わなかった。いくらなのか聞いたところ、アーサーでもすぐに出せるくらいの金額だったが、だからこそなおさら何があったのか事情が気になる。
「理由をお伺いしても?」
「……先日、恩人夫妻が馬車の事故で亡くなり、その息子が借金の形に売られそうになっている。今日の午後四時までに相手方に返済しなければならないが、手持ちではすこし足りなかった。領地に戻っていては間に合わないのであなたに縋った次第だ」
 葬儀に出たとき、息子の叔父夫妻が話しているのを耳にしたという。借金の相手はカドガン伯爵だ。少年を性的に好んでいて孤児に手を出しているとか、良くない噂をささやかれる人物である。
「そうなると、本当にただの事故だったのか疑わしいですね」
「ああ……だが時間がないので、ひとまず借金を返済して彼を助けたい」
「わかりました」
 アーサー自身も誘拐事件のときに金を借りた。結局、使うことなくそのまま返却したのだが、借りられたことでどれだけ精神的に助かったかわからない。だから、自分が金を貸すことで助けられるのならそうしたいと思った。
「助かる。来週には返済する」
 金貨を用意すると、グレアムはそう言い残して屋敷をあとにした。
 
 翌週、返済に訪れた彼に話を聞いたところ、恩人の息子は無事に助けることができたそうで、いまは彼の屋敷に住まわせているという。関わったひとりとして上手く事が運んだことに安堵した。
「それで、その子のことはどうするおつもりですか?」
「養子先を探そうと思っていたが、よそに行きたくないと言うので悩んでいる。カドガン伯爵のところで怖い思いをしたせいだろう。一時的なものかもしれないし、いまはあの子が落ち着くのを待っているところだ」
 アーサーは頷く。
 実直で思慮深い人物なので心配はしていなかったが、この答えを聞いて、あらためて彼に任せておけば大丈夫だと思うことができた。きっとその子にとって望ましい結論を出してくれるに違いない。

「アーサー、久しぶりだな」
 慌ただしさが落ち着いたころ、王宮の仕事場に突然リチャードがやってきた。
 誘拐事件のあとも聴取などで会っていたので久しぶりという気はしないが、言われてみれば十日くらいは顔を合わせていなかったかもしれない。自席から立ち上がると軽く会釈して尋ねる。
「お約束はなかったと思いますが、いかがしましたか?」
「こっちに用があったから寄ってみたんだ」
 彼がここに来たのはアーサーの知るかぎり初めてだ。同僚の若い女性たちは色めき立っているし、上司は当惑している。公爵家の跡継ぎが前触れもなくふらっと訪れたら、そうもなるだろう。
「こちらへどうぞ」
 内心で嘆息しながら隣の応接室へ通した。
 そこは応接セットがあるだけの簡素な部屋である。仕事の打ち合わせには基本的に会議室を使うし、賓客向けには共用の立派な応接室もあるので、ちょっとした来客のときにしか使わないのだ。
「別に応接室でなくてもよかったのに」
「申し訳ありません、こちらの都合です」
「まあ二人っきりのほうがいいか」
 リチャードは軽く笑いながらそう言うと、向かいに腰を下ろしたアーサーに優しい目を向ける。
「元気そうでよかったよ」
「ええ、もうだいぶ落ち着きましたので」
「このまえは顔色が悪かったからな」
 気付いていたのか——。
 確かに誘拐事件から数日は心労が響いたのか体調が優れなかった。睡眠不足もあったかもしれない。妻子を領地に帰すための準備に追われていたのだ。それでも彼のまえではいつもどおりに振る舞っていたつもりなのに。
「ご心配をおかけしました」
 そう応じて、座ったまま丁寧に頭を下げる。
「このとおり体調も戻りましたので、今度、何かお礼をいたします」
「礼は不要だ。あくまで騎士団としての仕事だから気にしなくていい」
「でも身代金は個人的に用意してくださったのですよね」
「まあ、それは……」
 リチャードは困惑したように目をそらせて言いよどみ、そのまますこし考え込むような素振りを見せたあと、再び視線を上げる。
「じゃあ、一緒に食事に行くってのはどうだ?」
「……あなたがそれでよろしいのでしたら」
「店は俺が決める。明日の夜は都合がつくか?」
「問題ありません」
 ただ、そんなことで果たしてお礼になるのか——。
 一抹の不安を感じつつも、本人が望むものを拒否するわけにもいかず、彼に仕切られるまま約束を交わしてしまった。

 翌日、リチャードに連れられて店に向かったのだが、そこは酒場だった。
 公爵家の人間にはおおよそ似つかわしくない庶民的なところだ。うるさいくらい賑やかだが、治安は悪くなさそうに見える。おそらく騎士団の同僚たちと飲みに来たりしているのだろう。
「こういうところは初めてか?」
「ええ……」
「安心しろ。意外と味は悪くない」
 リチャードはニッと口元を上げると、店員を呼んでメニューを見ながら適当にあれこれと頼んでいく。ほどなくしてジョッキが運ばれてきて乾杯した。そのうちに料理も次々と運ばれてきて二人で食べていく。
 アーサーは何もかもが初めてだった。いかにも庶民的な料理も、大雑把な大皿の盛り付けも、ジョッキで飲む酒も、陽気で騒々しい店内も。戸惑う気持ちはありつつも料理は素直においしいと思えた。
「そういえば、おまえ妻子を領地に帰したんだって?」
 お互いの仕事のことで軽く雑談したあと、リチャードがジョッキを片手にふと思い出したようにそう言った。どうしてそんなことまで知っているのだろうと驚いたものの、表情には出さずに頷く。
「ええ……このまま王都に置いておくのはやはり心配でして」
「まあな。でも帰すまえに言ってほしかったよ。一度きちんと会いたかった」
「申し訳ありません」
 言われてみれば、恩人の彼に何も言わないままというのは失礼だった。余裕がなくてそこまで頭がまわらなかったのだが、本来なら妻とともに挨拶くらいは行ってしかるべきだろう。ただ——。
「シャーロットは元気か?」
「ええ、とても元気にしています」
「それならよかった」
 ふっとやわらかい笑みを浮かべるリチャードを見て、心苦しくなる。
 彼女は元気にしているが、どうやら誘拐された事実を忘れているようなのだ。それほどショックだったということだろう。だから、恩人がいるということさえ話すわけにはいかなかった。

 それからリチャードはたびたび仕事場に訪れるようになった。
 ただ長くは居座らず、すこし言葉を交わしただけで帰っていくのでそう支障はない。おそらくついでに寄っているだけなのだろう。同僚たちもいつしか慣れたようであまり気にしなくなっていた。

 しかし——その日、リチャードは応接室で話がしたいと言ってきた。
 最初に来たときのように簡素な応接室に通して向かい合わせに座る。ただ、そのときとは違って彼はひどく真面目な顔をしていた。アーサーもつられるように緊張して落ち着かない気持ちになる。
「先日、俺は婚約を解消した」
「えっ?」
 思わず聞き返した。聞こえていなかったわけではないが、あまりにも唐突でにわかには受け止められなかったのだ。しかし彼は何でもないかのように淡々と話をつづける。
「公表は明日だ。そのまえにおまえには伝えておきたくて」
「そう、ですか……何と申し上げたらいいのか……」
「そんな顔するな。別にショックを受けたりはしていない」
 リチャードはクレランス侯爵令嬢のロゼリアと婚約していた。
 両家の親が決めた縁談とのことだが、誰もがうらやむ美男美女でとてもお似合いだと評判だった。実際、アーサーが数週間前に夜会で二人を目撃したときも、リチャードがそつなくエスコートし、彼女も誇らしげに受けていて、これといって問題はなさそうに見えたのに——。
「何か、家のご都合で?」
「悪いが理由は話せない」
「申し訳ありません」
 どうにも信じがたくて思わず聞いてしまったが、いささか不躾だった。
 ただ、やはり考えられるとしたら両家の問題ではないかということだ。二人が仲違いした程度のことで婚約解消が認められるとは思えない。あるいは二人のどちらかに結婚を取りやめざるを得ない事情が発覚したか——。
「いつか……話せるときがきたら話すよ」
 リチャードは遠くに思いを馳せるかのような顔をしてそう言うと、アーサーに視線を移してふっと笑う。このときの表情を、アーサーはどうしてだかいつまでも忘れることができなかった。

 翌日、予定どおりリチャードとロゼリアの婚約解消が公表された。
 当然ながら、数日後の夜会ではその話題で持ちきりになっていた。理由が公表されていないことも拍車をかけているのだろう。みんな好き勝手に憶測を披露しては盛り上がっているのだ。やはり家同士の事情ではないかという説が有力なようだが、その事情については意見が分かれている。
 アーサーはその話題に積極的に加わろうとはしなかったが、リチャードの元同級生だと知られているため、何か聞いていないかとあちらこちらで尋ねられた。本当に聞いていないので正直にそう答えているが、たとえ聞いていても、公表されていないものを勝手に話すことはないだろう。
 ザワッ——。
 ふいに空気が変わった。ざわめきがさざ波のように広がっていく。
 何があったのだろうと怪訝に思いながら周囲の視線を追うと、人垣のあいだからロゼリアの姿が見えた。エスコートしているのは彼女の兄だ。まさか婚約解消した直後に現れるとは誰も思わなかっただろう。
 しかし彼女はそんな好奇の視線など意に介していないかのように、堂々と背筋を伸ばして歩いている。優美な笑みさえ浮かべながら。それは前を向いて生きていくのだという覚悟の表れのように見えた。
 まだ年若い女性なのに、強い——。
 恥知らずだの小癪だの鉄面皮だのと眉をひそめるひともいるのだろうが、むしろ貴族の常識からすればそういうひとのほうが多いのかもしれないが、アーサーはひそかに彼女に好感を持った。

「リチャード様って本当に素敵よねぇ」
 昼休憩中にあてもなく王宮内を散歩していたら、ふとそんな声が聞こえた。
 振り向くと、同僚の女性二人が庭園のベンチに並んで昼食をとっていた。どちらも後ろ姿しか見えないが誰なのかはわかる。その若いほうがどうやらリチャードに憧れているらしい。
「言っとくけど、リチャード様が婚約解消したからって夢見ちゃダメよ」
「わかってるわよ……いろんな意味で分不相応だってことくらい自覚してるわ」
「ん、それもあるけど」
 知人の話なので気になるが、だからといって盗み聞きするつもりはなかったので、そのまま足を止めずに通りすぎようとしたところ——。
「リチャード様って実は男色らしいのよ」
「え、うそ?!」
 思わぬ発言に驚き、ほとんど反射的に白い柱の陰に身を隠してしまった。幸か不幸か周囲には他に誰もいない。鼓動が速くなっていくのを感じながら聞き耳を立てる。
「婚約解消もそのせいじゃないかって」
「じゃあ、どうして婚約なんて……」
「婚約してから目覚めたとか聞いたけど」
「なるほど」
 彼女たちは合間にすこしずつサンドイッチを頬張りながら、なおも話をつづける。
「でも目覚めたというより自覚したというほうが近いのかも。子供のころからずっと女嫌いだったみたいだし、女性関係も皆無のようだし、そういうお店にも行ったことがないらしいわ」
 いまはわからないが、確かに学生時代は女性関係が皆無だったはずである。女遊びは一切しないし、娼館にも決して行かないともっぱらの噂だったのだ。そのあたりに関しては真面目だなとひそかに感心していたのだが。
「でね、リチャード様はいまアーサーに懸想してるみたいなの」
「ええっ?!」
 はあっ?!
 どうして自分が——あまりにも予想外のことでわけがわからない。もしかしたら名前が同じだけで別人かもしれないと思ったが、この二人がどちらも同僚であることを考慮すると、やはり自分だろう。
「騎士団のひとに聞いたんだけど、リチャード様って自ら積極的に交流するタイプじゃないらしいのよ。苦手なわけじゃなく淡泊みたいで。なのにアーサーには自らグイグイ行ってるでしょ?」
「確かに……」
「事務方の雑用を奪ってまで王宮に来てるって話よ」
 言われてみれば、騎士団員が王宮に来るような用事はそう頻繁にないはずだ。もちろん王宮や王族の護衛にあたっていれば別だが、リチャードはそうではない。
「ふふっ、それが本当なら初めて恋をした少年みたいね」
「騎士団でも初恋なんじゃないかって言われてるらしいの。みんなこっそりと生あたたかく見守ってるみたい。だから本人は気付かれてるなんて全然わかってなくて。何かちょっとかわいいわよね」
 笑い合う二人の声を聞きながら、アーサーはひっそりと音を立てないようにその場を離れた。彼女たちの目の届かないところまできても足を止めず、そのままあてもなく回廊を歩きつづける。
 まさか、いくら何でもそんなことは——。
 男色については判然としないが、アーサーに懸想しているというのは周囲の憶測にすぎない。こんな何の確証もないことを安易に信じるわけにはいかない。そう自分に言い聞かせた。

「よう、元気にしてるか」
 その日もリチャードはひょっこりと王宮の仕事場に姿を現した。
 妙な憶測を聞いてしまったせいで少なからず意識してしまうが、それでも努めて普段どおりに接する。どうやら不審に思われない程度には取り繕えているようだ。彼の様子はいつもと変わらない。
「おまえ十日ほど領地に帰るんだって?」
「そんなことまでよくご存知ですね」
 ほんの数日前に上司に相談して休暇をもらったばかりなのに。思わず半ば呆れたような物言いになったが、彼は気付いているのかいないのか平然として話を進める。
「それさ、俺もついていっていいか?」
「……何か御用がおありなのでしょうか」
「シャーロットに会いたくなってな」
 それが本心なのかはわからない。ただ、いずれにしてもグレイ領の邸宅までついてくれば、シャーロットと顔を合わせないわけにはいかない。机の上で組み合わせた両手に力がこもる。
「あなたがシャーロットを救ってくれたことには、本当に心から感謝をしています。ですが……こちら側の事情で非常に申し訳ないのですが、シャーロットには会わないでいただきたいのです」
「事情?」
「シャーロットはあの事件のことをあまり覚えていないようなのです。それだけショックが大きかったのでしょう。ですから、それを思い出させるようなことは避けたいと考えていまして」
「そうか……」
 ひどく残念そうにしながらも、それなら仕方ないと一応は納得してくれたようだ。それでもただでは引き下がらないのが彼である。
「じゃあ、せめて写真を撮ってきてくれないか」
「……わかりました」
 受けた恩を思えば、写真のひとつやふたつくらいやぶさかではないが、彼がそこまで必死に要求することに何か違和感を覚えた。本当に救出した少女を気にかけているだけなのだろうか——。

「おとうさま!」
 領地の邸宅に帰るなりシャーロットが満面の笑みで駆け寄ってきた。アーサーはすぐに抱き上げ、遅れてやってきた妻や息子二人とも笑みを交わし、胸を熱くしながらただいまと告げる。
 子供たちはみんな一目でわかるくらい大きくなっていたし、重くなっていた。子供の成長は本当に早い。それをこうしてありありと実感できるのは幸せだが、一緒に暮らせない現状はやはり寂しい。
「仕事を辞めたくなるな」
「さすがに早いわよ」
 おかしそうにころころと笑う妻に、こちらに戻ってからの子供たちの様子を聞いたところ、敷地内だけで楽しく日々を送っているとのことだった。いまのところ街に行きたがることもないらしい。
 ひとまずは安堵した。けれど成長するにつれて不満が出てくる可能性は大いにある。そうなったらどうすればいいのだろうか。そもそもいつまで禁止すればいいのだろうか。今後の不安は尽きない。
 とはいえ、いずれにしてもいますぐにどうこうすべき問題ではないのだ。おいおい妻と相談しながら考えていけばいいだろう。それよりもまずは子供たちと過ごす時間を優先しようと決めた。
「シャーロット、写真を撮るよ」
「写真ってなぁに?」
「肖像画みたいなものかな」
 翌日には写真技師を呼んでシャーロットの写真を撮った。ついでに妻の写真も。息子二人はまだじっとしていられないので見送ったものの、もうすこし成長したら撮れるようになるはずだ。
 決して安くはない。しかしそれに見合うだけの価値は十分にあると思っている。
 そもそもはリチャードに頼まれたことがきっかけなのだが、いまはアーサー自身がおおいに乗り気になっていた。家族の写真があれば、離れて暮らしているあいだの心の支えになるだろう。
「どれもよく撮れているな」
「わぁ、そっくり!」
 写真が出来上がると、ローテーブルに広げて家族みんなで見ていく。
 シャーロットは初めて見る写真に驚いているようだった。すぐに手にとり、凝視したり裏返したり光にかざしたりと興味津々である。一方、妻は自分の写真を目にして微妙に恥ずかしそうな顔になった。
「これ、あなた本当に持っていくの?」
「そのために撮ったからな」
 反対はしないので、ただ単に照れているだけなのだろう。
 写真はすべて折れないよう丁寧にファイルに挟んで鞄にしまった。それを持ってあした王都に戻る予定だ。寂しい気持ちはあるが、妻子を領地に帰したあのときほどの孤独感はなかった。

「シャーロットの写真です」
 王都に戻ると、約束を果たすために騎士団本部のリチャードを訪ねた。
 挨拶もそこそこに厳選した五枚を彼の執務机のうえに並べる。どれもこのうえなくかわいくてきれいで愛らしくて、彼の思惑がどうであれ、見てもらえるだけで誇らしいような気持ちになる。
「あのときよりもすこし大きくなってるよな」
「はい、元気にすくすくと育っております」
 どうして写真をと思ったりもしたが、もしかしたら本当にシャーロットのことを気にかけていたのかもしれない。彼はやわらかい微笑を浮かべつつ一枚一枚しっかりと目を通していた。ただ——。
「ありがとな。五枚ももらえるとは思ってなかったよ」
「……あの……差し上げるつもりはなかったのですが」
「えっ?」
 彼は困惑しているようだが、アーサーのほうこそ大いに困惑している。写真を撮ってきてくれとは言われたものの、写真をくれとは言われていないのだ。
「元気にしている姿をお目にかければいいだけかと」
「いや、せっかく撮ってきたんだからくれよ」
「ですが……よその子供の写真なんて要りますか?」
「俺とおまえの仲だろう!」
 どうしてそこまで写真をほしがるのかもわからないし、俺とおまえの仲というのもわからない。一瞬、アーサーに懸想しているという例の憶測が頭をよぎったが、そんなわけはないと慌てて思考から振り払う。
「わかりました」
 すこし迷ったが、恩人である彼の要望なら断るわけにはいかない。度が過ぎたものではなく写真がほしいというだけなのだ。
「それでは一枚だけ差し上げますのでお選びください」
「ん、一枚だけ?」
「もともとわたしが眺めるために持参したものですから」
「なるほど、それで五枚も撮ってきたというわけか」
 彼は得心したように頷くと、机のうえに並べられた五枚を見比べながら考え始める。どうしてそこまでというくらい真剣な様子で。
「んー……じゃあ、これをもらうよ」
 選んだ写真はシャーロットの顔がアップになっているものだ。すこしの揺るぎもない清冽な緑の瞳をまっすぐに向けられて、まるで奥底まで見透かされるかのように感じてしまう、そんな一枚である。
 なかなかお目が高い——。
 それが最もシャーロットの本質を捉えていると思っていた。もちろん他もそれぞれ違った魅力があるのだが。そんなことを考えながら丁寧に残りの写真を回収して、脇に抱えていたファイルに挟む。
「あなたも早く結婚すればいい。我が子はかわいいですよ」
「そうはいっても当分のあいだは結婚できないんだよなぁ」
「それは、どうして……」
 聞いていいのかどうかわからず躊躇いがちに尋ねると、彼はふっと思わせぶりに口元を上げ、紫色の挑発的なまなざしでアーサーを見据えて告げる。
「おまえのせいだ。責任は取ってもらうからな」
「えっ……わたしの……?」
 そのとき、最後のピースがはまった気がした。
 ここまできたらもはや誤解や曲解だと思うほうが難しい。アーサーに懸想しているという例の憶測は正しかったのだ。彼の同僚たちも、そこここでひっそりと生あたたかい笑みを浮かべていた。

 どうしたらいい——。
 その夜、自宅に帰ってからひとり書斎で煩悶した。
 学生時代はリチャードのことが嫌いだったものの、いまはそうではない。しかし彼の気持ちには応えられない。アーサーは既婚者だし、そもそも男性を相手にすることは考えられないのだ。
 それでも彼から向けられる恋情を不快には思っていない。むしろ悪い気はしていないというか、かすかな優越感のようなものさえ感じている。そんなことは絶対に誰にも言えないけれど。
 さんざん悩んだ結果、いままでどおり何も知らないものとして接することに決めた。もし交際を迫られたら丁重に断るが、彼なら現状を犠牲にしてまで見込みのない賭けには出ない気がした。

 そうして翌日からも変わらない関係をつづけた。
 リチャードは王宮に来る用事があるとついでに顔を見せるし、アーサーも騎士団本部に行く用事があるとついでに顔を出している。そしてときどき一緒に昼食をとったりもしていた。
 そのうち、たまに彼に誘われて休日に出かけるようにもなった。このあいだなど、アーサーが紅茶を好んでいることを知ったからか、わざわざ評判の店を調べて連れて行ってくれたりもした。
 シャーロットの写真については領地に戻るたびに撮影し、彼に渡している。アーサーの気を引くためかもしれないが、彼はいつも興味を持って見聞きしてくれるので、親としてはうれしかった。
 ただ、シャーロットに会いたいという要望だけは断っている。もうだいぶ時間が経過したので大丈夫かもしれないが、記憶がよみがえって再び恐怖にとらわれる可能性もなくはないのだ。

 そんな折、ポートランド侯爵家のグレアムが自宅を訪ねてきた。
 内密に相談したいことがあるので二人きりで会えないだろうか——という主旨の文を受け取り、あらかじめ承諾の返事をしていたのだ。深刻な話かもしれないと緊張しつつ応接室に通したのだが。
「実は、ある令嬢と結婚したいと思っているのだが、どうすればいいか……」
「は?」
 肩透かしを食らった気分だった。
 しかし目のまえにいる彼はひどく思い詰めた表情をしていて、本気で言っているのだということは理解できた。ただ何について悩んでいるのかまではわからない。
「縁談を申し込めばよろしいのでは?」
「それは……そうなのだが……」
 広大な領地を有し、海運の要衝も抱え、強い発言力を有するポートランド侯爵家と縁続きになりたい貴族は多い。しかもグレアムは次期後継者である。普通に考えれば先方から断られる可能性は低いだろう。
「相手側に何か問題があるのでしょうか?」
「問題というか……彼女は過去に婚約解消していて……」
「なるほど、それでご両親に反対されているのですね?」
「いや、両親はクレランス侯爵家なら歓迎だそうだ」
 クレランス侯爵家ということは相手はロゼリア嬢だろう。彼女はリチャードと婚約解消したことで傷物とみなされている。夜会でも敬遠され、ひとり壁の花になっているのをときどき目にしていた。
 そうなったのは自分のせいかもしれないという後ろめたさもあり、アーサーは何度かダンスに誘っている。実際に話してみると凜としていながらも意外と可愛らしくて、ますます好感を持った。
 だから彼女にはぜひとも幸せになってほしいと願っている。グレアムが相手であれば家柄的にも人柄的にも言うことはない。彼に結婚する気があるのなら全力で応援したいところだが——。
「では、あなた自身の気持ちの問題でしょうか?」
「……おそらく彼女はまだ元婚約者を忘れられずにいる。きっと傷も癒えていない。わたしのことを男として意識さえしてくれていない。ダンスを踊ったときの感触だと嫌われてはいないと思うが」
 侯爵家の次期後継者でもう二十代も半ばだというのに、あまりにも青いことを言うので驚いた。思わずあきれたような胡乱なまなざしになってしまう。
「それで、自分のことを好きになってくれるまで待ちたいと?」
「……彼女の気持ちを蔑ろにしてはかわいそうだ」
「だからといって手をこまねいていたら掻っ攫われますよ」
 それは決して大袈裟な物言いではない。
「婚約解消からもう二年です。あなたが好意を寄せるくらい魅力的な女性ですし、何よりクレランス侯爵家と縁続きになりたい家は多い。彼女のご両親もそろそろ次の縁談を考える頃合いでしょう」
「…………」
 彼はグッと押し黙ったまま葛藤しているようだった。額にはうっすらと汗がにじんでいる。その様子をアーサーはしばらく無言で見守っていたが、やがて静かに口を開く。
「結婚してから信頼関係を築いていくというのも、悪くないと思いますよ」
 その言葉はアーサー自身の経験によるものだ。
 もちろんひとそれぞれなので押しつけるつもりはないが、彼が後悔しない選択をするための一助になればいい。そう願いながら、まだ躊躇っている様子の彼にやわらかく微笑みかけた。

 まもなくグレアムとロゼリアは婚約し、一年の後、領地に戻って結婚した。
 今後、グレアムは後継者として領地経営をすこしずつ引き継いでいくという。アーサーはまだ王都にいる予定だが、いずれ領地に戻ったときには仕事方面でも彼と関わることになるだろう。
 結婚式にはアーサーも妻を伴って参列した。
 グレアムが好きな女性と結ばれたことには素直に祝意を表し、ロゼリアが良縁に恵まれたことにはひそかに安堵した。彼女の婚約解消にはいささか責任を感じていたので、勝手ながら肩の荷が下りた思いだ。
 ただ、二人ともまだどこか遠慮がちでぎこちなさが窺える。きっとこれから時間をかけて信頼関係を築いていくのだろう。この結婚を望んだひとりとして、二人が幸せになれるよう願わずにはいられなかった。

 その後も王都で文官として働き、ときどき領地に戻るという生活をつづけていた。
 リチャードとは友人としてそれなりに親しくしているが、想いを告げられたとかそういうことはない。やはりアーサーとどうこうなりたいわけではないのだろう。だからといって結婚して身を固めるような気配もなかった。

 ある日——何の前触れもなく、そんな日常を打ち破る出来事が起こった。
 父親であるグレイ伯爵が急死したという一報が入ったのだ。事故ではなく、急に倒れてそのまま亡くなったらしい。急いで領地に戻り、葬儀を執り行い、諸々の手続きをすませて伯爵位を継いだ。
 領地経営も継ぐので文官の仕事は辞めざるを得ない。事情が事情だけに引き留められることはなかったが、突然だったので申し訳なく思う。上司にも同僚にも迷惑をかけることになってしまった。
「大変だったな」
「ええ……」
 父親の死亡は公表済みなので、説明するまでもなく事情はわかっていたのだろう。文官を辞して領地に戻ることを告げると、リチャードはただ静かに寄り添うような言葉をかけてくれた。
 本当に慌ただしくて、大変で、悲しむ暇さえなかった。
 それでも落ち着いていたし意外と平気だと思っていたのに、彼の言葉を聞いた瞬間、何かがぷつりと切れて目頭が熱くなるのを感じた。そのとき初めて心が憔悴していたことに気付いた。
 そんなアーサーの様子に、彼はつらそうに痛ましそうに顔を曇らせた。そして何かに操られるようにそろりと手を上げかけたが、途中で戻し、代わりにごまかすような微苦笑を浮かべて言う。
「また王都に来たら顔を見せてくれ」
「はい」
 今後も何らかの用事で王都に来ることはあるだろう。
 ただ、彼もいつまでもこのまま王都にいるわけではない。その現実に思い当たり、アーサーは追い打ちをかけられたかのように感じて、うっすらと目を潤ませたままそっと静かにうつむいた。

「シャーロット、おいで!」
 まばゆいくらいの陽光が降りそそぐ芝生の庭で、二人の弟と楽しそうにじゃれあっている彼女を呼ぶと、ぱあっと顔をかがやかせて駆け寄ってきた。ドレスにも髪にもあちこちに細かい芝がついている。
「写真を撮るのね」
「そう、だけどまずは準備だな」
「はい!」
 彼女は満面の笑みで元気よく返事をすると、邸宅のほうへ駆けていく。
 今日、写真を撮るということはあらかじめ伝えてあった。五歳のころから少なくとも年二回は撮影しているので、もう慣れっこである。何を準備するのかということもわかっているのだ。
 写真はリチャードに送るためのものである。
 領地に戻ってからの慌ただしさが一段落したころ、シャーロットの写真を添えて彼に手紙を出したところ、近況をしたためた返事が来て、そこからゆるやかに文を交わすようになったのだ。
 写真については別に求められたわけではないが、手紙だけというのは何となく気恥ずかしくて、毎回、言い訳のように添えている。彼もそれなりに楽しんでいるようなので構わないだろう。
「旦那様、写真技師の方がいらっしゃいました」
「すぐに行く」
 そう返事をして、アーサーも邸宅のほうへと足を進めた。

 そんな楽しくて賑やかで平和な日々を積み重ねて、シャーロットは十五歳になった。
 少なからず親の欲目はあるのかもしれないが、本当にいい子に育った。明るくて、素直で、穏やかで、誰にでも分け隔てなく優しい。気がかりなのは聞き分けが良すぎることくらいで——。
 結局、あの日からずっと敷地外に出ない生活を強いてしまったが、彼女は一度も文句を言わなかった。
 だからといっていつまでもこのままというわけにはいかない。十六歳になるまえにすこしずつ外を見せていかなければ。あまりに世間知らずでは社交デビューにも差し障りがあるだろう。

 そんなことをのんびりと考え始めていた矢先、グレイ家に激震が走った。

「は……っ……?!」
 ウィンザー公爵家から前触れもなく正式な書状が届いたが、何なのか見当もつかず、おそるおそる開封して緊張しながら中に目を通したところ——驚愕のあまり頭がまっしろになった。
 それは、シャーロットに対する縁談の申し入れだった。
 相手はウィンザー公爵家の嫡男であるリチャードだ。そう、あのリチャードなのだ。しかもどういうわけか国王陛下の口添え状まである。何もかもが想定外すぎて現実を受け止めきれない。
 どうして、こんなことになった——。
 静寂に包まれた書斎でアーサーはひとり頭を抱え、執務机に突っ伏した。

 やがてどうにか落ち着きを取り戻すと、妻を書斎に呼んだ。
 ローテーブルを挟んで互いに向かい合わせに座り、無言で例の書状を渡す。彼女は不思議そうな顔をしてそれに目を落とすが、すぐに息を飲み、ほっそりとした色白の手でそっと口元を覆った。
「ウィンザー公爵家って……陛下の口添えまで……」
 驚愕しながらも、取り乱すことなく念入りに読み込んでいく。やがて腑に落ちない表情でそっと書状を置いた。
「ウィンザー公爵家がどうしてそこまでしてうちを選んだのでしょう。正直、うちと縁続きになっても先方に利があるとは思えません。口添えを頂戴したのなら他にもっといい選択肢があったはずです」
 その疑問に、アーサーは答える義務がある。
 彼女をここに呼んだ時点ですべて打ち明けるつもりでいたが、あらためて覚悟を決めて話していく。彼が十年前に婚約解消したのは男色に目覚めたからだということ、そしてそのころからアーサーに懸想しているということを。
「本当は結婚したくなかったが避けられなくなったのだろうな」
「では、グレイ家に縁談を申し入れたのは……」
「ウィンザー家ではなく彼個人の希望ではないかと思う」
「あなたとは結婚できないからせめて姻戚関係にということ?」
「せめてわたしの血を引いた娘をということかもしれない」
「それって、身代わり……ですよね」
 アーサーにはそれを否定することができなかった。つらそうな顔をしている彼女から曖昧に視線を外し、いま言える精一杯のことを絞り出す。
「悪いやつではないんだ。シャーロットを蔑ろにはしないと思う」
「……そう祈るしかありませんよね」
 国王陛下の口添えがある以上、縁談は断れない。
 妻にはもはや祈ることしかできないだろうが、リチャードに懸想されているアーサーになら、もうすこし何かできることがあるかもしれない。シャーロットにつらい思いをさせないために——。

「わかりました」
 縁談について告げると、シャーロットはやわらかく微笑んでそう応じた。
 さすがに相手が男色だとかそのあたりのことについては話していないが、それでも異例ずくめの急な縁談なので、少なからず動揺したりショックを受けたりするだろうと思っていたのに——。
「わたしは貴族の娘ですから、家のために結婚するのは当然だと思っています。陛下のお口添えがあるのなら従うしかありませんし、相手が公爵家なら当家にとっても悪い話ではありませんよね」
「シャーロット……」
「そんなお顔をなさらないでください。相手がどのような方なのかはわかりませんが、どうせならお父さまとお母さまのようないい夫婦になりたいですし、そうなれるよう努力するつもりです」
 そんなことを言ってニコッとかわいらしく笑う。まだ幼さの残る少女の顔で。
 泣かれるのもつらいが、これほどまで殊勝なのもやりきれない——アーサーは返す言葉が見つからずに目を伏せる。その隣で、妻はこらえきれずに顔を覆って嗚咽した。

 ウィンザー家に承諾の返事を送り、ほどなくしてアーサーはひとり王都に赴いた。
 久しぶりに訪れた騎士団本部はあのころとあまり変わっていない。懐かしく思いながら受付でリチャードへの面会を申し入れたところ、すこし待たされてから騎士団長の執務室に案内された。
 その奥の執務机にリチャードはいた。
 いつのまにか騎士団長になっていたらしい。騎士服はいささか立派なものになっていたが、彼自身の見目はあのころのままである。一礼すると、彼は気まずそうな笑みを浮かべて立ち上がった。
「久しぶりだな」
「はい」
 部下を下がらせてアーサーに応接ソファを勧めると、向かい合わせに座る。
「約束もなくお伺いして申し訳ありません。所用で王都まで来たので、失礼ながらついでに寄らせていただきました」
「来てくれてうれしいよ」
 リチャードがやわらかい微笑を浮かべるのにつられて、アーサーの頬も緩んだ。
 何となく縁談には触れないまま互いに近況を話していく。しかしすぐに話題は尽き、二人きりの部屋に息の詰まるような沈黙が落ちた。アーサーは腿のうえで組み合わせた手に力をこめる。
「……シャーロットは」
 目を伏せたまま、どうにか決意を固めて本題を切り出した。
「あの子は、わたしたち夫婦にとってかけがえのない大切な娘です。これまで愛情をもって大事に育ててきました。なので……こんなことを言える立場でないのは重々承知しておりますが……」
 そこで顔を上げると、まっすぐにリチャードの目を見据えて訴える。
「どうか、シャーロットを幸せにすると約束してください」
 彼女のために自分ができるのはせいぜいこのくらいのこと。しかし他ならぬアーサーが頼むからこそ効果がある。そう信じて、仕事が忙しいにもかかわらず自らここまで足を運んだのだ。
「ああ……必ず幸せにすると約束する」
 リチャードは目をそらすことなく受け止めてくれた。
 本当にシャーロットが幸せになれるかは別にして、きっと努力はしてくれる。少なくとも蔑ろにはしないはずだ。彼の言葉で、表情で、態度で、どうにか自分をそう納得させることができた。

 非常識に短い婚約期間は着々と過ぎていき、婚儀の日が迫る。
 リチャードは騎士団の仕事が忙しく、いまだにデートどころか婚約の挨拶にさえ来られないままだ。無理して来なくてもいいと言ったのはアーサーなのだが、やはり微妙な気持ちにはなる。
 ただ、両親のウィンザー公爵夫妻は当人抜きで挨拶に来てくれた。どちらも物腰が柔らかい印象だ。シャーロットには申し訳ないことをしたと頭を下げられて、こちらが恐縮したくらいである。
 婚儀の準備についてはすべてウィンザー家に任せてあるが、進捗に問題はないと聞いている。さすがは公爵家というべきか。ウェディングドレスもいっさい手を抜かずに間に合わせたらしい。

 そして、とうとうシャーロットがグレイ家で過ごす最後の日になった——。
 婚儀までにはまだ数日あるが、ウェディングドレスの最終調整や段取りの打ち合わせがあるので、すこし早めにウィンザー家へ向かうことになっているのだ。アーサーたち家族も同行する予定である。
「お父さま、お母さま、今日はひとりで考えたいことがあるので、部屋にいます。夜までそっとしておいてもらえませんか?」
「……わかった」
 おそらくまだ心の整理がついていないのだろう。アーサーとしてはやはり家族と過ごしてほしかったが、それを押しつけるわけにはいかない。残念に思いながらも彼女の意思を尊重することにした。
「ありがとうございます」
 シャーロットは申し訳なさそうに微笑むと、昼食用のサンドイッチと紅茶を用意して二階の自室にこもってしまった。なのでアーサーもひとり書斎にこもって仕事を片付けていたのだが——。
「お嬢さまが部屋から消えていました」
「どういうことだ?」
 夕方になり、青ざめた侍女からそんな報告を受けた。
「部屋の窓がずっと大きく開いたままで、物音ひとつ聞こえなくて、お声をかけてもまったく返事がなくて……奥様に相談して扉を開けてみたら、お嬢さまの姿はどこにもありませんでした」
 結婚が嫌で逃げた、のか——?
 部屋にはサンドイッチも紅茶も手つかずで残っていた。置き手紙は見当たらない。カーテンがゆるくはためく窓のほうへ目を向けると、すぐ近くに木が見える。木登りの得意な彼女ならそこから庭に降りられそうだ。
 だが、逃げるとしてもどこへ。金を持っていないので遠くへは行けないはずだが、彼女に同情して手引きした者がいないとも限らない。彼女と面識があるのは親族、教師、使用人くらいだろうか。
「エリザは手の空いているものと敷地内をくまなく探してほしい。メイソンはシャーロットと面識のある人物すべてに当たってほしい。同時に自警団にも捜索を依頼しておくように」
「畏まりました」
 冷静に指示を出すと、控えていた侍女と家令はともに一礼して部屋をあとにする。すぐに侍女のパタパタという軽い足音が聞こえてきた。本来であればいくら急いでいても走るべきではないのだが、いまは咎める気になれない。
「わたしも探してみます」
 動揺していた妻も、気を取り直したように足早に部屋から出て行った。

「お嬢さまーーー! どこですかぁーーー!!!」
 さっそく外から侍女の声が聞こえてきた。
 敷地内にいるのなら本気で逃亡する気はないだろうから、呼びかければ出てくるかもしれない。問題は本気で逃亡しようと敷地外に出てしまった場合だ。取り返しのつかない事態になっていないことを祈るしかない。
 アーサーは執務机につき、かすかに震える両手を組み合わせてうつむく。
 すまない、シャーロット——。
 そこまで嫌なら断ってやりたいが、陛下の口添えに従わなければ叛意ありとみなされてしまう。爵位と領地を没収されるくらいですめばまだいいが、家族もろとも処刑ということもあり得るのだ。
 結論の出ないまま胃が痛くなるようなことばかり考えていると、にわかに書斎の外がざわめく。すぐにバタバタと足音がして、開けっ放しにしていた扉の向こうから侍女のエリザが飛び込んできた。
「お嬢さまがお戻りになりました!」
 アーサーは息を飲み、はじかれたように椅子から立ち上がった。

「シャーロット!」
 リビングに駆け込むと、彼女は普段とすこしも変わらない姿でそこにいた。アーサーの姿をみとめて気まずげな顔になったものの、すぐさま我にかえったように表情を引き締めて一礼する。
「お父さま、ご心配とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。結婚するまえに、どうしても一度カーディフの街に行ってみたかったのです」
「……逃げ出したのではないのか?」
「そんなつもりはありません。最初に言ったように結婚は受け入れていますから。いつか誰かとすることですもの。あ、これおみやげです」
 ふと思い出したようにローテーブルの上の紙袋を手に取り、アーサーに渡す。
 中にはいくつかの茶葉の瓶と小さな包みが入っていた。ローテーブルの上にはまだ同じ小さな包みが三つあるので、家族みんなに買ってきたのだろう。中身はおそらくハンカチではないかと思う。しかし——。
「おまえ、お金なんて持っていなかっただろう?」
「ネックレスをひとつ売りました。申し訳ありません」
「それは構わないが……」
 ほとんどのものはここに置いていくことになっているので、最後に役に立てたのならよかったが、未成年が売るとなると裏通りの治安のよくない店しかない。下手したら無事ではすまなかったと今更ながらヒヤリとする。
「……街は、楽しかったか?」
「はい、劇場でお芝居を観ましたし、カフェにも行きました。移動販売でサンドイッチも食べたんです。とても楽しくて……本当に、夢みたいで……」
 最初はニコニコと無邪気に声をはずませていた彼女が、途中で言葉を詰まらせる。ここではないどこかにせつなげなまなざしを向けて。その表情にアーサーは胸を締めつけられてしまい、何も言えなくなった。

 翌日、予定どおり馬車でウィンザー家に向かった。
 夜更けに到着すると、公爵夫妻はにこやかな笑顔で歓迎してくれたが、結婚する当人であるリチャードはまだ来ていなかった。どうしても外せない仕事ができたので少し遅れるとのことである。
 仕方ないとは思いつつも、婚約者どうしの顔合わせもまだなのにと不満は募る。結婚式に間に合うかも不安だ。シャーロットもそういう素振りは見せないものの、同じ気持ちではないかと思う。
 ただ、彼女にはそれなりにやることがあったのでよかった。ウェディングドレスのサイズ調整をしたり、結婚式の段取りを確認をしたり、公爵夫人とお茶をしたりであまり悩む暇はなかっただろう。
 だが、結婚式当日の朝になっても夫となるひとが到着していないと聞くと、さすがに不安をにじませた。公爵夫妻もひどい顔色である。それでも時間までには来ると信じて支度を進めるしかなかった。
 シャーロットを幸せにすると約束してくれたはずなのに、さっそくこんな——。
 アーサーも心配と不安でどうにかなりそうだった。自分たちの支度をすませると、他にすることもないのでひたすら気を揉むしかない。グッと奥歯を噛み、まだ姿を見せない彼に内心で苦言を呈したそのとき。
「リチャード様が到着しました! いま大急ぎで支度をしているそうです!」
「そう、か……よかった……」
 グレイ家の控え室に飛び込んできた執事の報告にほっとして、全身から力が抜けた。開始時刻に間に合うのかはまだわからないので、安心するのは早いが、それでも最悪の事態は避けられたと思っていいだろう。
「お嬢さまのお支度が終わりました」
 つづいて侍女が報告に来た。
 アーサーも妻もまだ一度もウェディングドレス姿を見ていない。そわそわしながら花嫁の控え室に向かい、先導していた侍女の手でゆっくりと扉が開かれると——アーサーは大きく息を飲んだ。
 そこにいたシャーロットは、まるで天使か妖精のようだった。
 純白のウェディングドレスは公爵家が用意しただけあって見事なもので、その方面に詳しくないアーサーにも上質で精緻であることが窺えた。そして何より彼女自身の可憐で清浄な美しさがそれに負けていないのだ。
「きれいよ、シャーロット」
 ふいに隣の妻が感極まったようにそう声を震わせる。
 アーサーも実感をこめて頷いた。ただ、本当に嫁いでいくのだという現実をあらためて突きつけられて、いまさらながら胸がつぶれそうなほど苦しくなってしまった。
「シャーロット、夫のウィンザー侯爵のことで何かあれば言ってきなさい。わたしのほうからできることがあるかもしれない」
「でも、あまり実家が出しゃばるのはよくないですよね?」
「まあ、そうだが……それでも本当に困ったときは躊躇わずに言ってきなさい。実家というより友人として話すつもりだから」
 自分が頼めば、リチャードはそれなりに聞き入れてくれるはずだ。
 彼の恋心を利用するようでいささか気が咎めるが、そもそも彼が恋心を暴走させたせいで彼女が犠牲になったのだから、このくらいのことは許されてしかるべきだろう。
「……はい」
 シャーロットは当惑したような面持ちで話を聞いていたが、一呼吸して肯定の返事をすると、あらためて姿勢を正してまっすぐにアーサーたちを見据えた。
「お父さま、お母さま、これまで本当にありがとうございました。わたし、お二人のように幸せになります。だから、どうか心配なさらず笑って送り出してください」
 そう告げてふわりと花が咲くように笑った。
 アーサーは思わず隣の妻と目を見合わせてしまったが、すぐに二人してシャーロットのほうに向きなおると、彼女の願いどおりに微笑んでみせた。寂しさと不安と後ろめたさは心の中にしまいこんで。

 花嫁の控え室を退出すると、そのすぐ傍らでグレイ家の執事がひっそりと待ち構えていた。そろそろ参列者が聖堂に入る時間だと知らせに来てくれたのだ。
「君は子供たちを連れて先に行ってくれ」
「あなたはどうするのです?」
「ウィンザー侯爵が間に合うか見てくる」
 妻を執事に任せて、アーサーはそのまま花婿の控え室へ向かった。
 扉のまえで足を止めてコンコンと軽くノックすると、どうぞと応じる声が中から聞こえてきた。それは間違いなくリチャード本人のものだ。急激に緊張が高まるのを自覚しながら、そろりと扉を開く——。
「アーサー!」
 リチャードはパッとうれしそうに顔をかがやかせ、立ち上がった。
 後ろから従者が黒髪を整えていたところのようだが、もう十分に整っているし、衣装もきっちりと着ているし、見たところだいたい支度は終わっているようだ。アーサーはほっと息をつく。
「どうやら間に合いそうですね」
「ああ……おまえにも心配かけたな」
「あなたは昔からいつもギリギリだ」
「それでも遅れたことはないよ」
 リチャードは悪戯っぽく肩をすくめる。パブリックスクール時代を思い起こさせるやりとりに、アーサーもつい表情が緩んでしまう。
「ところで何の用だ?」
「いえ、あなたが結婚式に間に合うのか確認に来ただけです。気が気でなくて……シャーロットに惨めな思いはさせたくありませんから」
 仕事なら責められないが、花嫁の父として心配するくらいのことは許されるだろう。そう思ったが、彼はどういうわけか急に怖いくらい真剣な顔になり、一気に間を詰めてアーサーの背後の扉にドンと勢いよく手をついた。
 えっ——。
 さらに息がふれあうくらいにグイッと顔を近づけ、覗き込んでくる。
 思わずアーサーはびくりと体をこわばらせて息を殺した。まさか——これから娘と結婚しようというのに、この教会で宣誓しようというのに、よりによってどうしていまここでこんなことを。
「じょっ、冗談にしても……あまりこのようなことをなさるのは……」
 冗談であってほしい、そう願いながらおずおずと探るような言葉を向ける。
 それでも彼の表情はすこしも変わらなかった。アメジストのような紫の双眸で鋭くアーサーを射竦めたまま、さらに顔を近づけてくる。こらえきれずにアーサーはギュッと目をつむったが——。
「おまえさ、俺がおまえに懸想してるだなんて本気で思ってるのか?」
「えっ……ぁ……えっ……?」
 驚いて目を開くと、彼は呆れたような冷ややかな半眼でこちらを見ていた。しかしアーサーとしては何がなんだかわからないままで、困惑の声しか出ない。
「どうしてそれを……いえ、あの…………違うのですか?」
「おまえのことは友人としか思ったことがないし、そもそも俺は男色じゃない」
「……本当に?」
 はぁ、と彼は盛大な溜息をついて体を起こした。
 彼の顔が離れてアーサーはようやくほっと息をつくが、彼の言ったことはまだ信じきれずにいた。じっと訝しむような探るような目を向けていると、彼は何とも言えない微妙な面持ちで腕を組む。
「なあ、俺がおまえに懸想してるだなんてどうして思ったんだ?」
「同僚がそうではないかと……いえ、すぐにそれを信じたわけではなかったのですが、あなたが……結婚しないのはおまえのせいだ責任を取れなどと言うので、やはりそういうことなのかと……」
 そう告げると、彼は眉をひそめながら首をひねる。
「そんなこと言ったか?」
「言いました」
 確信したのはそのときなのではっきりと覚えているのだが、彼は記憶にないらしい。本当に懸想などしていないというのなら、いったいどういうつもりでそんなことを言ったのだろうか。
「まあ、何にせよおまえに懸想してるってのは完全な誤解だ」
「でしたらシャーロットとの結婚を望んだのはなぜですか?」
「ああ……」
 彼はどこか緊張した面持ちでアーサーに向きなおり、口を開く。
「シャーロットとの結婚を望んだのはシャーロットが好きだからで、他意は一切ない。おまえが心配しなくても彼女のことは大事にするし、二人で幸せになるつもりだ。何せ十年も待ったんだからな」
「えっ?」
 十年も待った? シャーロットのことが十年前から好きだった??
 確かに十年前の誘拐事件のときにシャーロットと出会っているが、彼女はまだ五歳だった。そのときから結婚を意識していたというのはさすがに無理がある。写真で成長を見守るうちにということだろうか。
「ほら、時間だぞ」
「ですが……」
「またあとでな」
 肩を押され、半ば強引に控え室から追い出された。
 詳しく話を聞こうと思ったところだったので、何となくごまかされた気がしないでもないが、確かにもう時間はない。釈然としない心持ちのまま身を翻して歩き始める。
 カツッ、カツッ、カツッ——。
 無機質な靴音が一定のリズムを刻む。
 それを意識することなく耳にしているうちに、何か言いようのない苦しさと寂しさが湧き上がり、足が止まった。たったひとつの音が消えた冷たい廊下にひとり佇む。
 ——シャーロットとの結婚を望んだのはシャーロットが好きだから。
 ——おまえのことは友人としか思ったことがない。
 それが事実なら、きっとシャーロットのことを大事にしてくれるだろう。身代わりなどではなかったのだから。もうアーサーが心配する必要もないのかもしれない。ただ——。
「いっそ、嫌いなままでいたかった」
 幽かな声がこぼれ落ちた。
 瞬間、ハッと我にかえって顔を上げる。さいわい周囲を見まわしても誰ひとりいなかったが、それでも何か気まずくて、その場でゆっくりと深呼吸をして仕切りなおした。
 よし——。
 再び聖堂へ向かって歩き始める。その足が途中で止まることは、もうなかった。


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